[#表紙(表紙.jpg)] 特攻の思想 大西瀧治郎伝 草柳大蔵 [#改ページ]   ま え が き     ——なぜ「特攻の思想」を書いたか  思えば、永い道程であった——。  昭和四十三年の秋、「大西瀧治郎中将のことを書いてみないか」と足立助蔵氏(海軍少将)から誘いをうけた。  不思議なめぐりあわせというべきであった。  海軍特別攻撃隊員の手記は、すでに、数多く出版されている。どの一冊、どの一篇を読んでも、胸を打たれ、涙を禁ぜざるはない。若き学徒兵は、その精神の次元において、精一杯の心情を吐露し、あるいは怒り、あるいは諦め、あるいは信じて、文字を連ねている。私は、彼らの遺稿を読みながら、ふと、手をとめることがあった。それは、「特攻」という攻撃手段の特異性からくるものであった。  本文にも指摘しておいたが、「決死」と「特攻」とはまったく性質をことにしている。「決死」は「死」を主観にゆだねている。また「決死隊」の背後にはつねに「救助」が用意されている。日露戦争の旅順港閉塞のときも、閉塞隊の背後に救助艦隊が配置されていた。  しかし、「特攻」は「死」を客観にゆだねている。当事者は「死を覚悟」しているのではなく、「死」でしか任務を遂行できないのである。もうひとつの大きな相違点は、「決死」はある局面にのみむけられるが、「特攻」はいわば「制度」として採用された、持続的な組織である。  このような考えに立つとき、私は、「特攻に送られた若者」の手記が陸続と刊行される中で、「特攻を送った側の論理」が公開されていないことに疑問をもった。何年ごろか忘れてしまったが、特攻を創始したのは大西瀧治郎海軍中将だという話が耳につたわった。方々の雑誌に、大西中将と縁のあった人々が回想記を発表しているのを目にすることもできた。それはそれで、大西中将の|風※[#「ノ/二に縦棒を通す」]《ふうぼう》を伝えていたが、局部的であったり心情的であったりして、「特攻」が制度化されてゆく思想的構造にまとまらない憾《うら》みがあった。 「送られた側の心理」よりも「送った側の論理」を追及してみないことには、「特攻」が限界状況から生まれた一時的な思想的産物なのか、あるいはわれわれ日本人の精神構造と深くかかわりあっているのか、そのへんがわからない。そんな大それた考えを持っているとき、足立氏から誘いがあった。  もとより、戦史・戦術の専門家ではない。昭和三十二年に刊行された「大西瀧治郎伝」(故大西瀧治郎海軍中将伝刊行会・非売品)と「神風特別攻撃隊の記録」(猪口力平・中島正共著・雪華社)を手がかりとして、あとは生残者のインタビューと資料によるジャーナリズムの仕事である。数多くの人々の時間を頂き、資料の提供を受けながら、大西中将の思考過程をとぼとぼと辿るほかはなかった。  大西中将を�暴将�ないし�愚将�とする意見がある。ある高官は、声をひそめて「君、特攻は大西君の�猿マス�だったんだよ」とさえいった。猿に自慰を覚えさせると、精力をつかい果すまで続ける、それと似たようなものだというのである。  このようにきめつけてしまうことが、じつは「特攻」の創始者を一般に理解させるうえで、最も手取早い方法であろう。「特攻」は戦争末期、気違いじみた一提督によって断行されたのだ、「帝国海軍」とは縁もゆかりもない、ヒステリー現象である——そういうことになる。  あたかも、特攻の先陣を切った「神風特別攻撃隊」の呼び名が、「しんぷう」からいつの間にか「かみかぜ」にかわり、「かみかぜ運転」とか「かみかぜドクター」というように、揶揄的《やゆてき》に使われ出したのと、同じような精神状況である。  しかし、気違いじみた一提督の発案と判断によって、二千五百三十名(海軍関係二千六十五名)の若者が「死」を客観にゆだねえたであろうか。昭和十九年十月二十五日から敗戦の日まで、二千三百六十七機もの飛行機が持続的に出撃しえたであろうか。  私は、そこからさらに大西中将を「特攻の創始者」とする判断にも疑問を持った。世界戦史上、類をみない自殺戦術が、たった一人の人間の論理や心情から産み出されるであろうか。  取材の途中、大西中将の副官をしていた門司親徳氏(元海軍大尉)から、中将が洩らした言葉をきいた。 「わが声価は、棺を覆うて定まらず。百年ののち、知己またなからん」  この言葉を耳にしたとき、私は男の心情の軋《きし》みを聞く思いがした。大西中将は�暴将�といわれたことにひと言も弁明せず、特攻の創始者という汚名を一身に引受けて、黙って死んでいったのだ。彼は、五尺何寸かの身体の中に、憾みと涙と怒りをいっぱい溜めて、地下に眠っている。しかし、それでは困るのである。  私は、大西中将の名誉を回復しようとは思わない。回復しようにも、彼は、ただひたすらに詫び、一言の弁解もせずに死んでいったので、手がかりがない。だから名誉回復はできないが、彼が「特攻決定」の立場に立った、あるいは立たされた、その思想的過程は回復したい。それは、少くとも、当時の状況を掘りおこし、それと大西中将とのかかわりあいを探ってゆけば、すこしはあきらかになるはずである。  第一稿は、昭和四十三年十月号の「文藝春秋」に書いた。あまり気に入らず、全面的に書き直すことにして、大西像を思いあぐねながら歳月が流れた。その間、藤沢隆志氏が補正取材をしてくれた。ようやく、「特攻」の思想の延長線が現代をも貫いていることに気がつき、昭和四十六年の「諸君!」六月号に連載を開始した。それから十カ月経過し、さらに、専門語の手直しなどがあって、今日ようやく刊行することができた。  永い道程を、あたたかく見守ってくれ、ときには励ましのお声をかけて下さった方々に、厚くお礼を申し上げます。みなさんのご支援がなければ、私はこの長丁場のレースを放棄したかもしれません。また、「文藝春秋社」の向坊寿・半藤一利・田所省治・鈴木經太郎各氏には、ほんとうにお手数をかけました。ありがとうございました。     壬子 催詩欲雨の頃 [#地付き]草 柳 大 蔵 [#改ページ]   特攻の思想 大西瀧治郎伝[#「 大西瀧治郎伝」はゴシック体] [#改ページ]    第 一 章    若いもんは生きて日本をつくれ[#「若いもんは生きて日本をつくれ」はゴシック体]  大西瀧治郎中将が海軍軍令部次長の官舎で自刃したのは、昭和二十年八月十六日の午前二時四十五分である。生命力のつよい男で、作法どおり腹を十文字にかき切り、返す刀で頸《くび》と胸とを刺していながら、なお数時間は生きていた。  発見者は官舎の使用人である。朝の光の中に、彼の部屋の電灯がぼんやりとついているのを見て、扉をあけると畳一面の血しぶきであった。  急報によって、多田武雄海軍次官が軍医を連れて駈けつけ、前田副官と児玉誉士夫も現場に急行した。  大西は、近よろうとする軍医を睨んで、まず、いった。 「生きるようにはしてくれるな」  腸が露出し、もはや助かる見込みはなかった。その状態の中で、凝然と息をのんでいる児玉誉士夫に、大西はしっかりした口調でいった。 「貴様がくれた刀が切れぬものだから、また貴様とあえた。おい、すべてはその遺書に書いてある。だが特別に貴様にたのみたいことがある。厚木の海軍を抑えてくれ。小園《おぞの》大佐に軽挙妄動をつつしめと、大西がそういっていたと伝えてくれ」  その言葉に、児玉は頭の中が熱くなって、部屋の中にあったもう一本の刀を抜くと、心臓にあてがった。そのまま大西の上に折り重なれば死ねる。そのとき、「バカモン」と大西はつよい声を出した。 「貴様が死んでクソの役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて日本をつくるんだよ」  軍医が傍から「稀なくらい心臓がつよいから、まだ数時間はもちますよ」と、はげますようにいった。  児玉は、夫人を呼ぼう、と思った。淑恵夫人は、群馬県尾瀬の千明《ちぎら》牧場に疎開している。中将から「軍人の妻は夫に余計な心配をかけるな」といわれて東京を離れた。 「閣下、奥さんがくるまで待って下さい。ここまで来て、死に急ぐことはないでしょう。いま、私がお迎えにまいります」  児玉がいうと、大西は蒼白な顔をゆがめて笑った。眼だけが光っていた。 「バカ。軍人が腹を切って、女房がくるまで死ぬのを待つなんて、そんなアホウなことができるか。それより、あの句はどうかね」  色紙がかかっていた。児玉は、大西の言葉ではじめてそれに気がついた。   すがすがし暴風のあと月清し 「おやじの句としては、出来のいい方かね」 「そうかな」  児玉は、すぎ去ってゆく時間をつかまえるかのように部屋を出て、海軍省の自動車に飛び乗った。しかし、大西の生きている姿を見たのは、それが最後となった。  遺書は二通あった。一通は妻の淑恵宛のものである。「瀧治郎より淑恵殿へ」という書き出しで始まっている。夫婦の間に子はなかった。 [#挿絵(fig.jpg)]  一、家系其の他家事一切は、淑恵の所信に一任す。淑恵を全幅信頼するものなるを以て、近親者は同人の意志を尊重するを要す。  二、安逸を貪ることなく世の為人の為につくし天寿を全くせよ。  三、大西本家との親睦を保続せよ。但し必ずしも大西の家系より後継者を入るゝの要なし。   之でよし百万年の仮寝かな  もう一通は「特攻隊の英霊に曰《もう》す」で始まるものである。 「特攻隊の英霊に曰す。善く戦ひたり、深謝す。最後の勝利を信じつゝ肉弾として散華せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。  吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。  次に一般青壮年に告ぐ。  我が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ、  聖旨に副《そ》ひ奉《たてまつ》り、自重忍苦するの誡《いましめ》ともならば幸なり、  隠忍するとも日本人たるの衿持《きようじ》を失ふ勿《なか》れ。諸子は国の寶《たから》なり。平時に處し、猶ほ克《よ》く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を盡せよ」  大西瀧治郎、行年五十五歳。  海軍軍人としての最後にあたって、彼の脳裡をさいなんでいたものは、みずからの手で「神風《しんぷう》特別攻撃隊」を編成し、発進せしめたことである。ちなみに、太平洋戦争における「特攻隊」の参加人員は二千五百三十名、飛行機は二千三百六十七機におよんでいる。    「特攻は統率の外道」[#「「特攻は統率の外道」」はゴシック体] 「大西瀧治郎伝」の筆者は、大西と特攻との関係をつぎのようにのべている。 「世上では特攻を創始したのは大西であるかのようにいう人も少なくないが、如何にも大西は海軍航空界の信望を一身にあつめた名将ではあったが、しかし、特攻というあの前代未聞の大事が、特定の一人二人の思い付きでできるわけのものではないのであって、測り知れない深い歴史的な背景と、全作戦軍の澎湃《ほうはい》たる祖国愛、なかんずく、若き戦士達の不屈の闘魂こそ、真の生みの親というべきで、特攻生みの親などと称せられることは、誰よりも大西自身のよろこばぬところであるにちがいない。事実潜水艦にあっては航空に先んじて、黒木大尉、仁科中尉等若き特殊潜航隊員の救国の熱血によって十九年九月には既に特攻が決定され、大津島で体当り攻撃訓練が開始せられていたのだし、航空機にあっても特攻的攻撃はしばしば敢行されていたのであった。彼はかかる大勢の焦点に立っていたので、いわば生れ出《い》ずべくして生れた飛行機特攻を、正式組織化し、計画化した産婆役に任じたと見るべきであろう。彼こそは最適の産婆役たり、類いなきすぐれた号令者であったのである」  私の見るかぎり、以上のような見解が、大西の「特攻」編成をやむをえぬとする立場に共通のものである。さらに踏みこんでいえば、源田実のように、「大西の立場に立たされれば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし、彼ら自身が特攻機に乗って出撃したであろう。それが海軍軍人である」といういい方にもなってくる。  しかし、実際に徴してみると、この「大西瀧治郎伝」の著者が使っている「特攻的攻撃」と「特攻」は、ちがうようである。 「特攻的攻撃」の伝統を「特攻」発生の土壌であるかのように説くむきは、旅順港|閉塞《へいそく》隊や真珠湾攻撃の特殊潜航艇隊を例にあげるが、これは決死隊であって特攻隊ではない。  決死隊の場合は、参加したものが死を主観にゆだねている。「おそらく生還できないであろう」という可能性を思い切り拡大している。しかし、客観的にはこれらの決死隊には「全員収容」という条件が背景にある。  真珠湾攻撃に特殊潜航艇を進発させるにあたって、ときの連合艦隊司令長官山本五十六は、この計画に「全員収容」というメドが明らかになるまで、絶対に許可をあたえなかったのだ。  あるいはまた、空中戦で敵弾を受け、帰還不能となった飛行機が相手に体当りして自爆した場合でも、結果は「特攻」と同じであっても「帰還不能」という自己判断が媒介となっている。 「特攻」は、「特攻的攻撃」が死を主観にゆだねているのに対して、死を客観にゆだねている。「全員収容」の客観条件ははじめからなく、また「自己判断」も入りこむ隙がないのである。一口にいえば、「特攻」は単なる「自決」ではなく、「他決」の上における「自決」である。  また、「特攻」の参加は命令ではなく志願という形がとられたが、これも特徴的なことである。命令には命令者の責任が伴う。統率の本筋と合致した行為である。しかし、志願には命令者は存在しない。したがって、責任の所在がはっきりしない。もし、責任が問われるとすれば、それは大西中将のようにみずからの心情にすべての責任を負うしかないのである。  昭和十九年十月二十五日、フィリッピンのクラーク基地から関行男大尉のひきいる「神風《しんぷう》特別攻撃隊」の「敷島隊」が進発した。「神風」の命名者は第一航空艦隊の先任参謀、猪口力平中佐である。以後「特攻」は陸続と発進した。  搭乗員の多くは、飛行服の上衣を脱ぎ、白いマフラーをはずして、「あとからくるものに使わせて下さい。われわれにはもう不用です」と置いていった。周囲はその心根を思って泣いた。関大尉らのように、ポケットから汗と油でくしゃくしゃになった札をとり出し、「これで飛行機をつくって下さい」と醵金《きよきん》するグループもあった。その金、二千円あまりが内地に届けられたとき、軍需大臣藤原銀次郎は「私にその一枚をいただかせて下さい」と、もみくしゃの一円札を両掌に受け、しばらくむせび泣いたという。  このような光景を見送りながら、大西中将は、あるとき猪口参謀にポツンとひとこと、いった。 「なあ先任参謀、特攻なんてものは、こりゃ、統率の外道《げどう》だよ」  司令官として過不足のない表現であったろう。しかし、大西はこの「統率の外道」をやめなかった。なぜか——。    戦場と司令長官と軍人と[#「戦場と司令長官と軍人と」はゴシック体]  私には、大西が特殊な三角形の中にいたからではないかと思われる。  三角形のひとつの頂点は「戦場」である。もうひとつの頂点は「司令長官」である。第三番目の頂点は「軍人」である。  制空権のない戦場に立つ大西  第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎  海軍中将・大西瀧治郎  彼は、この三つの立場を頂点とする三角形の中に身を置き、「特攻」が雲間に吸いこまれてゆくのを茫然と眺め、ときにはみずから新しい「特攻」の編成を手がけるのである。  戦場での大西に、二人の新聞記者があっている。ひとりは後藤基治(大毎)、もうひとりは戸川幸夫(東日)である。  後藤記者があったのは、何度目かの特攻機が上空に消えた直後である。大西の眼に光るものを見た後藤は「長官、特攻隊で戦況が挽回できるのですか?」とたずねた。すると大西は、後藤を見すえて「貴様、ちょっとこい」と、人気のない草原にすわらせた。叱られるのかと首をすくめる後藤に、大西は「比島の敵は食いとめられるかもしれんがな」といい、それから「戦の大局はだな……」と口の中で呟いて、やめた。 「じゃ、なぜ、特攻を続けるんですか?」  後藤が聞くと、大西は落ち着いた口調になっていた。 「会津藩が敗れたとき、白虎隊が出たではないか。ひとつの藩の最期でもそうだ。いまや日本が滅びるかどうかの瀬戸際にきている。この戦争は勝てぬかもしれぬ」 「それなら、なおさら特攻を出すのは疑問でしょう」 「まあ、待て。ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」  戸川記者があったのは大西中将が比島から台湾へ転進してからである。台湾の基地からも続々と「特攻」が飛び立ち、大西自身が「特攻を出すことに狃《な》れてしまったのではないか」と、昏《くら》い眼をすることが多かった。そこを戸川がつかまえて、聞いた。 「特攻によって日本はアメリカに勝てるのですか?」 「負けない、ということだ」と大西は投げかえすように答えた。 「日本のこの危機を救いうる者は大臣でもなけりゃ、軍令部総長でも司令長官でもない。三十歳以下二十五歳までの、或いはそれ以下の若い人々で、この人たちの体当り精神とその実行、これが日本を救う原動力なのだ。作戦指導も政治もこの精神と実行に基礎を置かなくてはならぬ」  大西は戦場《ヽヽ》にいる人間として「この局面だけは食いとめられるかもしれぬ」と判断し、司令長官《ヽヽヽヽ》としては「瀬戸際に立たされた海軍」を感じ、中将《ヽヽ》としては「勝たないまでも負けない、それが日本を亡国から救う道である。そのためには特攻がどうしても必要なのだ」と、自分自身を説得しているのである。  それが無意味であるとわかっている行為でも、行動してみなければ存在そのものまで危うくなるような局面が、人生にも社会にも国家にもあるものだ。そういう局面をなんと名づけてよいか、私にはわからない。しかし、その無意味な行為の担当者は、ついに、永遠に名誉を回復できないということだけは、たしかである。担当者の心情は理解されても、行為の全体には容認を与えられないのである。  大西中将は、三角形の中をうろうろと歩き、三角形の頂点から頂点へと移動を続けている。戦後、外国の学者や新聞記者が「カミカゼの精神」について取材し、それぞれの見解を発表しているが、要するにこれを「日本の国民性の中に培われた東洋独得の思想」とすることでは一致している。古今の戦史の中で、死を客観にゆだねた行為は、後にも先にもこれしか類例がないのだから、日本人の国民性の中にその要因が問われるのは当然すぎるほど当然だとしても、行為の発想から体現までをひとつの光源で照らし出そうとするのは、いささか性急なアプローチではないかと思う。    「百年ののち、また知己なからんとす」[#「「百年ののち、また知己なからんとす」」はゴシック体]  台湾に基地を移したある日、大西中将は空気銃で鳥射ちに出かけながら、副官の門司親徳大尉にいうともなく、「やっぱり、わかってもらえないだろうな」と、つぶやいた。門司大尉は「特攻機のことだな」と思ったが、黙っていた。大西は、それから二、三歩あるき出すと、ひとり言《ごと》を夕空に投げた。 「わが声価は、棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」  微かな風が出て、草が光った。大西は小高い丘の上で足をとめ、蕭々《しようしよう》と走ってゆく風を見つめていた。足元の草も遠くの木も、きらきらと、風の光を投げあっていた。大西はその光の中に、子どものように寝ころんだ。それから、ごろりと身体を横転させた。一回転がすむと、またごろりと回転させ、そのままごろごろと横転しながら緩やかな斜面を降り切った。丘の裾まできて、大西中将は立ち上らなかった。草の上に俯伏せになり、草や土の匂いを嗅いでいるようであった。副官が近寄ると、彼は草の中に顔を埋めたまま、黙って片手をあげた。副官がその手をとってひきおこすと、大西は「どっこらしょ」といいながら、立ちあがった。 「さ、行こうか」  海軍中将は、衣服についた草の葉も払わずに歩き出した。門司大尉は、その足どりに大西のとぼとぼした心を読みとった。「指揮官の孤独」、そんな言葉が門司をつらぬいた。  私は、門司大尉から大西の「わが声価は、棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」という言葉を聞いたとき、歴史の一頁の重みを全身にひきうけ、黙って死んでいった男の、心情の軋《きし》みを聞く思いがした。特攻を編成する立場に立たされた軍人として、なにかに訴え、なにかを恨まんとする気持は、軍衣をつらぬいて噴き上げようとしたにちがいない。しかし、彼は訴えも恨みも、すべて彼一個の中に凝固させている。私が調べたかぎりでは、そうとうな期間と取材量になったにもかかわらず、ついに大西の「特攻」についての弁明は一片だに聞くことができなかった。大西は、黙って死んでいった。  大西中将の評価については、高木惣吉元海軍少将の�愚将論�をはじめ、�暴将�であるとか、「要するに前線の司令官」であるとか、かならずしも高くはない。  私は大西を弁護しようとは思わない。いや、弁護しようにも、彼はまったく弁明の材料を残してゆかないのだから、手がかりがないのである。勇ましい檄文《げきぶん》だの、建白書だのがあれば、彼の立場や心境もわかるのだが、彼はただ、最初の特攻を発進させ、終戦の翌日の未明、自決するという事実しか残していないのである。言葉としては、ただ「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」である。 「特攻」は、あらためていうまでもなく、天をも恐れぬ暴挙である。大西も「統率の外道」と吐きすてるようにいっている。海軍部内にも反対はあった。  終戦時の総理大臣であった鈴木貫太郎大将は、死後発表された所感の中で、たとえ事情はどうあろうとも、生還の途を与えない攻撃方法はとるべきではなかった、特攻は遺憾であった、という意味のことをいっている。のちに紹介するように、歴戦のパイロットの中には、「あんな方法で乗員や飛行機を消耗されて、たまるものか」と、雑誌の座談会(昭和二十年三月)で公言するものもいたのである。  しかし、大西は「特攻」という暴挙をあえて行ない、海軍内で「愚将」とレッテルをはられたからこそ、ひとことも弁明しなかったのではないか。「暴挙」の責任をひとりで背負って、「愚将」のまま死んでいったのではないか。  自決の前夜、大西は矢次一夫の家を訪れている。あとで紹介するように「徹底抗戦」を叫んで万策つきたあとである。  矢次は、大西の顔を見ると「この男、死ぬ気だな」と直感した。 「君のような阿呆は、ここらで腹を切ろうなんて考えているだろうが、そんなことをすれば、慌て者だと笑われるだけだぜ」  矢次がぴしゃりというと、大西はぎらりと眼を光らせ、抑揚のない声でいった。 「腹を切ったら阿呆か」  しかし、つぎの瞬間、彼はどたんと立ち上ると、すごい力で矢次の身体にむしゃぶりついた。大西の、どっどっという身体の鼓動が矢次の身体を搏《う》った。 「貴様ぁ、泣いたことはないのかぁ」  それを叫ぶと、大西は声を放って泣いた。泣く、というより吠える状態に近かった。背中も脚もぶるぶるとふるわせ、全身から涙を放つ有様であった。 「よしよし、今夜はひとつ大いに飲もう。食いものは俺が用意するが、酒がない。君、持ってきてくれ」  矢次は大西の両腕に手をかけ、泣きじゃくる中将の、涙に光る顔をのぞきこんでいった。 「………」  大西は、頷《うなず》いただけであった。  夕刻、矢次は竹箒で玄関を掃いて大西を待った。風が落ちて、蜩《ひぐらし》が寂々《せきせき》と鳴いた。月見草は、蜩の声がわかるのであろうか、徐々に花の頭をもたげていった。大西は、月見草が好きな男であった。縁日で買ってきた鉢植えの月見草を庭に移植し、勤めから帰ると、庭下駄を突っかけて、黄色い花が殻を振りおとし、ゆっくりと小さな袖をひろげるのを見つめていた。  その光景の中を、大西は浴衣を着て下駄をはき、一升酒をぶら下げて、ふらりとあらわれた。すぐ、酒宴になった。 「いまだからいうがな」と、矢次は微醺《びくん》の中でいった。 「特攻を使って勝ったとしても、日本の名誉にはならなかったな」  矢次は、直接大西にいうよりも、海軍全体への批判をこめて、その言葉を口にした。昭和十九年七月八日、サイパンが陥落してアメリカ陸海軍の手に帰したとき、海軍報道部の栗原大佐が「これからは肉弾特攻しかありません」といったのを、矢次はとびあがる思いで、聞いている。矢次のような民間人が特攻という言葉を正式に聞いたのは、これが始めであった。  大西は、眼を伏せて、しばらく黙っていたが、持っていた盃を卓子の上におくと、さびしそうにいった。 「前途有為の青年をおおぜい死なせてしまった。俺のような奴は無間《むげん》地獄に堕《お》ちるべきだが、地獄の方で入れてはくれんだろうな」  矢次は話題をかえた。なんとかして大西の自殺を思いとどまらせようと考えた。そこで、金森徳次郎や矢部貞治らがつくった「敗戦後の日本想定」という文書をみせ、「これからのアジアは政治的難問が山積するぜ」といった。大西は、その文書にかなり慎重に眼をとおしたのち、 「このとおりなってくれれば、負けてもまあまあだな」  と、薄い笑いをうかべた。  そのあと、彼は急速に酔いの中に陥ちこんだ。副官を迎えにこさせるほどであった。八月の深い闇の中を、大西はくわえ煙草をしながら、あるいては笑い、笑ってはよろめきつつ、消えていった。闇の中で笑いながら、彼は嗚咽《おえつ》をこらえていたのかもしれない。    戦争の名人がいなくなった[#「戦争の名人がいなくなった」はゴシック体]  大西中将が、「特攻」を進発させる舞台に立たされたのは、昭和十九年十月二十日付で、第一航空艦隊司令長官に補せられたときである。内示はその月のはじめにあった。十月九日に、大西が勤務していた、軍需省航空兵器総局は、彼のために送別の宴を張っている。長官は陸軍の遠藤三郎中将、大西は総務局長で、自ら女房役を買って出ていた。かねてから「航空は小生の生命に候」といっていたように、彼は大正四年に海軍中尉として水上機母艦「若宮」に乗艦して以来、航空畑ばかり歩いてきた男である。独英にも留学し、みずから操縦|桿《かん》も握っている。それだけに、飛行機についての知識、航空戦についての見識にかけては、海軍部内で彼の右に出るものはいなかった。それに数多くのパイロットを育てており、歴戦の飛行機乗りから絶大の信望をあつめている。太平洋戦争が始まるまえ、源田実などは、「大西さんが連合艦隊司令長官になったら、戦争をはじめてもよろしゅうございます」と、冗談まじりではあるが、口にしたほどである。  その大西が、陸・海軍の対立抗争が続く軍需省の、ことに、航空兵器総局の椅子を占めたことは、恰好の人事であった。いや、この局を創設したのは、大西の進言が大きな原因とさえなっているのだ。それだけに大西は、陸軍から遠藤中将を迎えると、彼は遠藤より二歳も年上であったが、みずから局長に下がり、遠藤には申呼《しんこ》の礼をとっている。遠藤と大西は日支事変からの知りあいで、すくなくとも二人の間では呼吸が一致していた。  話が横道に外《そ》れたが、この大西を前線基地の司令長官に送りこんだのは、海軍軍令部内にそれなりのプログラムがあったからであろう。  遠藤三郎の話では、大西の比島転出は司令長官として�親補�されたのだから「栄転」の形をとっているが、じつは東条らの追い出しであるという。原因は彼の書いた「出師《すいし》の表」である。  昭和十九年六月、サイパンが危うくなったとき、軍内部に「放棄説」と「死守説」が対立した。大西らは「サイパンを放棄すれば日本の国防は成りたたない」と主張した。遠藤三郎は、武蔵と大和の巨艦をサイパンに乗り上げさせ、巨砲をひらいて米軍上陸部隊を叩き潰せと主張したほどである。  しかし、大本営の意思が「放棄」に傾いてゆくと、大西は参謀本部を飛びこえて、天皇に直訴しようとした。十九年六月二十五日のことであったと、遠藤三郎の日記は伝えている。が、この直訴は道を塞《ふさ》ぐものがあって実現しなかった。  大西が「サイパン死守」に拘泥《こうでい》したのは、航空母艦の保有隻数がすくなくなった以上、サイパン島は飛行基地として重要な価値を持つ。ここを拠点として航空戦力を駆使すれば、米太平洋艦隊の行動力はいちじるしく制限される、これが第一点である。しかし、より重要なことは、この価値判断はサイパン島が米軍の手におちた場合、まったく裏目に出ることである。それが、陸上航空基地というものの宿命である。サイパンの基地を米空軍が使い出したら最後、こんどは日本の連合艦隊が手も足も出なくなるのだ。  この判断のほかに、航空将軍・大西らしい配慮があった。  真珠湾攻撃以来、海軍航空部隊は歴戦のパイロットをつぎつぎに失っている。開戦当時は「太平洋戦争は名人がやるものだ。だから、名人が生きているうちにやめましょう」という声があったと、寺岡謹平元中将は話してくれたが、その�名人�も昭和十九年に入ると、数えるほどしかいなくなった。パイロットの絶対的不足を補うために採用されたのが、学生出身の「海軍飛行予備学生」である。彼らは�テンプラ�とよばれる訓練をうけた。テンプラとは「早くあがる」という意味である。この経過を表にしてみる。  昭和十九年の一月から十月までの十カ月間に、海軍は五千二百九名のパイロットを失っている。これは十九年初頭の全搭乗員数の四二パーセントにあたっている。  このため、未熟のパイロットを補充におくったが、これが未熟なるがゆえに、さらに損耗率を高めた。つまり、日本のパイロットの補給過程に悪循環がおこったのだ。「海軍飛行予備学生」はこの悪循環にリンクされた、�黒い若桜�であった。  学生の種類 短縮教程(カッコ内は正規)        練習      実用  飛行学生  5カ月(6カ月)5カ月(6カ月)  予備学生  4カ月(6カ月)4カ月(4カ月)  飛行練習生 4カ月(6カ月)4カ月(4カ月)  ごらんのように、予備学生と飛行練習生は、八カ月の訓練期間しか与えられていない。これでは、飛行時間はせいぜい飛んで二百時間であろう。地上の離着陸がまあまあで、空中戦はおろか、航空母艦からの発着はほとんど不可能である。だいいち、重油が不足してきて、発着訓練用に母艦を動かすなど、とてもできない状況にあるのだ。空母からの発進と着艦は、一流のパイロットでもむずかしいもので、平均四百時間以上の腕前にならないと安定しない。昭和十七年に採用された学生たちは、それでも空母の飛行甲板を利用するところまで上達したが、その訓練中だいぶ死者を出しているという飛行将校の証言もある。    勝者と敗者の原則[#「勝者と敗者の原則」はゴシック体]  このパイロットの練度不足を、私は、いま大西中将の「サイパン死守論」の根拠のひとつとして紹介しているが、じつはこれは「特攻」を発進させる、じつに大きなポイントになるのである。それをここで、大西中将の言葉として書いてしまおう。 「地上においておけばグラマンに叩かれる。空に舞いあがれば、なすところなく叩き落される。可哀想だよ。あまりにも可哀想だよ。若ものをして美しく死なしめる、それが特攻なのだ。美しい死を与える、これは大慈悲というものですよ」  しかし、この言葉はもう一度、昭和十九年末のフィリッピン戦場の中で、その状況とかみあわせて聞く必要がある。  大西の「サイパン死守論」は以上でわかるように「航空優先」の考え方から出ているが、これがいまだに武蔵・大和を擁する「大艦巨砲主義」の主流に通じなかったことは、いうまでもない。  かくなるうえはと、大西は島田海相が軍令部総長を兼任しているのを解き、「島田海相・末次総長・多田次官・大西次長」の人事表をつくって、島田の許に提出した。  遠藤がびっくりして思いとどまらせようとしたが、大西はきかなかった。遠藤は、大西に比島転出の命令が出たとき、とっさにこの「出師の表」を思い出した。  この遠藤説に対して、大西の�栄転�をもうすこし戦略的にながめる見方がある。一口にいえば、大西の比島転出は「海軍が最後のエースをおくりこんだもの」という評価である。  内示があったとき、大西は義母にこういっている。 「ふだんなら忝《かたじ》けないほどの栄転だが、今日の時点では、陛下から三方《さんぼう》の上に九寸五分《あいくち》をのせて渡されたようなものだよ」  第一航空艦隊は、昭和十八年七月一日付で再編成された基地航空部隊である。司令長官は角田覚治中将で、大本営|直轄《ちよつかつ》として、内地で訓練に従事していたが、十九年四月一日付で連合艦隊に編入され、司令部をテニアンにおき、マリアナ、パラオ、トラック、ケンダリー、ダバオに、千六百四十四機を展開していた。主力は第六一、第六二の両航空戦隊、それに横須賀航空隊の教官教員で編成する「八幡部隊」の五十機である。   戦闘機 八八八   爆撃機 二八八   陸 攻 三一二   艦 攻  四八   偵察機  九六   輸送機  一二  これだけの陣容がととのっていれば、航空のエース、大西瀧治郎海軍中将を迎えるのにふさわしい舞台であったろう。  しかし、わずか半年の間に、一航艦は潰滅《かいめつ》したのである。まず、四月二十六日のビアク島争奪戦で六二航戦が潰滅した。戦史上「渾作戦」とよばれるものである。その潰滅の模様を、源田実が書いている。 「ビアク作戦のため、西カロリン、濠北方面に転進した航空部隊(六二航戦)は、その往復に際し、同方面の飛行場の不良と、ビアク方面数回の戦闘によって、約半数を失い、それに加えて基地施設不良のため、搭乗員の大部分がマラリヤに冒されてしまった」  それから二カ月後、グアム島東方海上に姿を見せた米機動部隊は、サイパン、テニアン両島に空襲と艦砲射撃をあびせ、この戦闘で第六一航空戦隊は壊滅してしまった。  八幡部隊も硫黄島で米機動部隊と交戦、かなりの米機を撃墜したが、味方の損害も多く、決戦兵力としての意味を失っている。  かくて、大西中将を迎えた「一航艦」の保有勢力はわずかに百機、そのうち戦闘機は第二〇一航空隊の三十機にすぎなかった。かつて、戦勢挽回の最大のホープと目された面影は、どこにもなかった。  第一航空艦隊潰滅の経過を素描したのは、ほかでもない。戦争における「勝者と敗者の原則」が、はっきりと露呈してきたからである。  第一は、彼我の航空機生産力の差である。このころすでに、アメリカは圧倒的優位に立っている。陸上基地はたしかに�不沈空母�であるが、量の差がある場合は、これは飛行機の墓場になる。日本の飛行機が空中戦をおえて補給のために着陸するとき、アメリカ側はその上空に待ち伏せ部隊をおいて、まるで両掌で蚊をつぶすように、疲れきった日本機を叩き落したのである。  第二は、空中戦闘法の開発のちがいだ。戦闘方法として、これまでのような一騎討ち型をあらため、かならず二機がペアとなって零戦一機にむかうという方法がとられた。日本の戦闘機は�名人�芸の伝統からぬけ切れない。生産力がすくなかったことにもよる。零戦の火器は、七・七ミリ二挺と二十ミリ二挺の四挺である。七・七ミリは一分間三百五十発、二十ミリは五十発である。これを囲むグラマンは、一機あたり十三ミリ機銃が六挺ついている。二機で十二挺である。しかも発射にリンク・システムがとられ、死角がでないようになっている。その火ぶすまの中に飛びこむ零戦の運命はいうまでもない。  第三は、パイロットの練度不足である。単独飛行がやっとという程度で戦地に送りこまれ、そこで三カ月ばかり訓練をうけたのだから、実戦に出す方が無理なのだ。だから、彗星《すいせい》のような優秀な飛行機がおくられてきても、それを乗りこなすパイロットがいなかった。ちなみに、真珠湾攻撃やマレー沖海戦など、初期の空中戦に出陣したパイロットは、すでに二千時間以上の経験をもっていたのだ。  第四は、ガソリンのオクタン価のちがいである。アメリカのオクタン価は一一〇、日本のはすでに七八に低下していた。これは飛行機が上昇するときに大きく影響してくる。猪口中佐の話では、グラマンはシューンという音を立てて上昇するが、零戦はバタンバタンといいながら昇る、という。「まるでクライスラーとオート三輪のちがいだった」そうである。そのうえ、整備能力のちがいが明瞭になった。  アメリカの整備には作業の標準化が行きわたっていた。昨日までホットドッグを焼いていた男でも、治工具をマニュアルどおりに動かせば、その場から整備員となることができた。たとえばエンジンのボルトの締めつけでも、ボルトが完全に締まらなければ工具がはずれないようにできている。日本のは�名人芸�であった。|締め味《ヽヽヽ》といったものが口伝で教えられている。だから、エンジンのボルト締めが甘く、せっかく出撃しても整備不良のため、編隊をはずれて引きかえす機が出てきた。  第五は、パイロットの環境のちがいである。とにかくマラリアが出るような施設に寝起きし、食事をしているのである。  空母を中心とする艦隊決戦は、システムの戦争である。彼我の航空機が遭遇する以前に、すでにシステムの優劣によって、勝敗がきまっているのだ。    有馬少将出撃す[#「有馬少将出撃す」はゴシック体]  以上のような「原則」が南太平洋を覆っていた。その中で、開戦以来二度目のZ旗が瀬戸内海に碇泊《ていはく》する連合艦隊旗艦「大淀」のアンテナから、全海軍に発令された。いわゆる「あ号作戦」の開始である。 「あ号作戦」は、参加兵力の数からすれば、太平洋戦争中最大の艦隊決戦であり、日本海軍が三十年来練りあげてきた対米作戦の総決算であった。  しかし、結果は惨敗に終った。勇将・小沢治三郎中将の乗る旗艦「大鳳」は、日本の艦船技術が粋をこらして進水させた新鋭空母であったが、わずか百日で南溟《なんめい》の藻屑《もくず》と化した。さすがに魚雷にはびくともしなかったが、雷撃のショックで軽油タンクからガスが洩れ、それが艦内に充満、一挙に引火して全艦火だるまとなった。飛行甲板がふくれあがり、艦は後尾から沈んでいった。このほか空母の沈没二隻。航空戦力は人員器材ともにほとんど潰滅した。 「あ号作戦」の失敗で、制空・制海の両権は完全に失われた。その結果、戦局のテンポは一段と早くなった。  七月六日、サイパン島玉砕。  八月一日、テニアン島眠る。  八月十日、グアム島応答せず。  九月十五日、ペリリュー、モロタイに米軍上陸。  第一航空艦隊は再建された。残存する飛行機二百四十九機をかきあつめ、フィリッピンのクラークを基地として、寺岡謹平中将が二代目の司令長官に就任した。  寺岡は「陣中日記」にこう書いている。 「惟《おも》ふに昭和十九年九月といふ月は、余の三十四年の海軍公生涯中最も傷心の月であった。然し余は愈々神経を太くして事態を正視し、此の内憂外患を乗り切って戦力の増強を謀り百折|倦《う》まず隊員に勇気をつけて飽くまで勝利への道に邁進《まいしん》する覚悟を新たにしたのである」  寺岡は大西と海兵が同期《セーム》である。海大も一緒に受験したが、大西にはのちに述べるように「芸者殴打事件」があって、寺岡だけ合格した。  彼の在任期間はわずか二カ月であったが、その耳に「特攻決行」の意見具申がしばしば達していた。が、「仁将」といわれた寺岡はその声を握り潰していた。  ——中央からの命令が「艦隊決戦にそなえてできるだけ航空戦力の温存をはかれ」とある以上、敵の空襲から飛行機を退避させるのは当然ではないか……。  これが寺岡の統率の原理であった。つぎの「艦隊決戦」は「捷一号作戦」のはずであった。寺岡は�時期�を待っていたともいえる。  これに対して、麾下《きか》の第二六航空戦隊司令官であった有馬正文少将は、業《ごう》を煮やす思いである。有馬はイギリスに留学して、英海軍の流儀を学んでいる。彼は進言を繰りかえした。 「見敵必戦こそ海軍の生命であり誇りではありませんか。長官、逃げてばかりいないで、戦いましょう」  有馬は進言したが、寺岡の唇からは「出撃」の声はでなかった。出るのは「待避」で、そのたびに味方の損害はふえてゆくのである。  ついに、有馬は重大なことを口にした。 「もはや特攻攻撃によるほか戦勢を挽回する方法はありません。いまなら士気が奮っているから可能です」  有馬がどの程度の規模で、なにを目標に特攻をかけようとしたかは不明である。ただ、彼の�武士�の血がそういわせたようである。  十月十五日、台湾沖航空戦が火を噴いた。有馬少将は一番機に乗りこんで参加したが、乗機が被弾するや、空母めがけて一直線に突っ込んでいった。彼は、この日、階級章をはずし、双眼鏡の「司令官」という白い塗料の文字をナイフで削り、参謀や司令が必死でとめるのを振り切って乗りこんでいる。命令系統からいえば、将官が攻撃機に乗るのは司令官の命令があった場合である。しかし、この日、寺岡中将は陸軍部隊との打ちあわせのため、マニラに出向いて、留守であった。  有馬が煙をひきながら南溟に落ちてゆくとき、大西中将は寺岡中将と交替すべく、台湾まで飛来していた。彼は、秋の深い空をどす黒く染める戦闘を見ながら、 「内地にいたものだから、敵さん、戦争の講習をしてくれるわい」  と、切れ長の目を細めていた。このとき、彼の方寸に「特攻」のプログラムが収められていたかどうか、さだかではない。 [#改ページ]    第 二 章    大艦巨砲主義の反対者[#「大艦巨砲主義の反対者」はゴシック体]  大西海軍中将は、第一航空艦隊司令長官としてフィリッピンに赴任するまえ、軍令部総長室に及川古志郎大将を訪れている。話は「特攻」についてであった。 「最早、特攻以外に勝機をつかむことはできない戦局かと思われますが、特攻発動の時期については、私にご一任下さいませんか」  この発言の意味を理解するのはきわめて困難である。いまだに、解釈がわかれている。大別すれば二通りになる。  第一は、大西の自負心によるものとの解釈である。  大西は「海軍航空隊育ての親」といわれるほどの�飛行機通�である。かつて、彼は「空軍独立論」をとなえ、「空威研究会」というのまでつくって、その席上で「海軍の帽章に錨《いかり》があるうちはダメだな、あれを飛行機かプロペロの図柄にしないといかんよ」と公言していた。太平洋戦争が始まってからも、彼は「日本海軍は日露戦争のときの連合艦隊思想と少しも変っておらんからな。あぶなくて見ておれんぜ」と、いってはばからなかった。周囲のものが「憲兵の耳にでも入ったらどうするのか」とたしなめると、大西は「すこしは真実の声が聞えてもよいだろう」と、改める風もないのである。  艦隊決戦から航空決戦の時代へ——それを読んでいたのは、山本五十六と大西瀧治郎であったというのが定説になっている。私は、いまさらこの定説を繰りかえす必要はないと思う。ただ、いかなる集団にあっても、既成の価値概念を新しい価値概念に置き換えることは、きわめて困難で、外部からの決定的因子が働くのを待つという状態が多いのではないかということを言い添えておきたい。  ひと口にいえば、大西は「大艦巨砲主義」の徹底的な反対者であった。  豊田貞次郎大将は海軍省から出向して日本製鉄の社長に収っていたことがある。社長というより、鉄鋼という戦争資材の統括者になったわけだ。  このとき、大西は海軍機関大佐であった足立助蔵を伴い、豊田に面会を申し込んでいる。足立の回想によると、大西は私服であったが、ヨレヨレのワイシャツを着て、裾のところがズボンからハミ出し、靴はほとんど磨いていなかった。彼は、服装と同様にぞんざいな言葉を豊田に投げつけた。 「あんた、いったい、ここでなにをしておるのかね。資材はみんな『武蔵』や『大和』にまわってしまって、飛行機の方にはすこしもこないじゃないですか」  豊田が「そうかね。どうなっておるのかな」と苦り切った顔になると、大西は、 「なにを考えておるんですか。私は、あんたに絶望しとるよ」  きめつけるようにいってから、足立の方を見て「足立大佐、資材部長の立場からすこし説明してあげなさい」と、命じたものである。  大西のこのような態度に対して、毀誉褒貶《きよほうへん》二つの評価が生まれたのは当然である。  私が取材した範囲では、特別攻撃隊の編成と出撃に対して、海軍のある高官は「あれは、結局、大西君の�猿マス�だったんだよ」と、声をひそめて語ったものである。猿に自慰を覚えさせると、興奮状態からぬけ切れず、倒れるまで続ける。大西の�特攻�はそれと同じようなもので、所詮は「戦場心理がうんだ異常事態であった」というのである。    及川は大西に賭けた[#「及川は大西に賭けた」はゴシック体]  さて、大西が及川軍令部総長に「特攻の時期の発動については私にご一任下さい」といったとき、及川は「君なら信頼できる」と答えている。「君なら信頼できる」というのは、大西の特攻発動の決意は全面的にみとめるということになるが、言葉のニュアンスとしては、特攻を出さなくても、それはそれで認める、ということになるだろう。  私は、及川も大西に賭けたのだ、と思いたい。なぜ、�賭け�という言葉が必要かといえば、「特攻」という攻撃方法の性質が重大だからである。  後でまた述べるが、結論だけ先にいっておくと、及川と大西との間にかわされた�特攻�という言葉は、個人の�肉弾攻撃�の集積を意味するものではない。  有馬少将は、台湾沖航空戦に参加して、壮烈な最期をとげた。米国側の資料によれば、この戦闘中「日本の一機が正式空母フランクリンの三十メートル近くの海中に突入、その翼の一端が同艦の甲板に飛び散った」とある。  有馬少将の行為に代表されるような�体当り�の例は、昭和十九年十月二十五日に「第一次|神風《しんぷう》特別攻撃隊」が発進するまえに、いくつも見られる。  愛機が被弾して帰投不能と判断し、空中で敵機に体当りを敢行して散華したもの。母艦を直掩《ちよくえん》中、敵の放った魚雷が突進してくるのを発見、そのまま機首を下げて魚雷に体当りしたパイロット、等々……。  これらの肉弾攻撃は、いずれも個人の決意によって行なわれている。ひとつの状況が生じ、それに対応する決意が生まれ、行動がおこされている。行動が個人の決意をヒキガネとして結実されるのだ。  しかし、「特攻」はちがう。個人の肉弾攻撃は「決意としての特攻」である。これに対して、及川と大西の間にやりとりされた�特攻�は「制度としての特攻」「組織としての特攻」である。  航空艦隊司令長官は親補職である。大西を比島におくったのは豊田副武の人事であるといわれているが、実際はともあれ、司令長官の位置は�天皇の人事�になるのだ。したがって、その位置から発せられた命令は、動かしがたい。  この命令を受けたものは、そのときから死との対話をはじめなければならない。その対話を情熱の中に昇華させるか、諦念の中に沈潜せしめるか、あるいは最後まで生を主張してかえって対話の密度をあげるか、それは個人の精神の作業によるものだ。  その作業の結果を、われわれは戦没将兵の遺稿や手記で読むことができる。その精神の絶叫は、いまだに深い感銘をあたえずにはおかない。広島・長崎の原爆の記録と同様に、これらの手記は戦争への告発的価値をもつものであろう。一方、遺稿や手記を残さずに死んでいった若ものもある。  戦場が沖縄に移り、毎日のように鹿屋《かのや》から特攻機が出撃していたころ、突入寸前の特攻機からの無電に変化がおきたと、ある練達の海軍士官がいっている。 「祖国の悠久を信ず」「われ、敵艦に突入す」にまじって、「日本海軍のバカヤロ」「お母さん、サヨナラ」という電文がおくられてきた、というのだ。  われわれは、この電文の発信者を「祖国の悠久を信ず」の発信者とくらべて、非難したり低い価値観でみることはできない。 「制度化された特攻」の下では、個人の参加意志に濃淡が出るのは当然であり、だからこそ大西瀧治郎の苦悩も深かったわけであろう。短くいえば、「日本海軍のバカヤロ」という電文があったればこそ、われわれはもう一度、特攻の思想を検討する必要があるのではないか。「お母さん、サヨナラ」は、たしかに軍人らしくない。勇ましくない。凜々《りり》しくもない。しかし、勇ましく凜々しいものが、真実を伝えているとは限らない。  このようにみてくると、大西の及川に対する言葉は�大西の自負心がいわせた�という解釈は、大西と特攻隊員との間に大きな溝をつくることになる。  第二の解釈は、サイパン陥落後に軍部内に澎湃《ほうはい》としておきた�特攻思想�を、大西が一身でひきうけたのだ、とするものである。 「大西瀧治郎伝」の著者は「……いわば生れ出《い》ずべくして生れた飛行機特攻を、正式組織化し、計画化した産婆役に任じたと見るべきであろう。彼こそは最適の産婆役たり、類いなきすぐれた号令者であったのである」と書いている。  たしかに、彼は「最適の産婆役」であったかもしれないが、彼がその役をどのような判断からひきうけたのか、それが問題である。このポイントから、大西中将の特攻に対する心理的起伏を追ってみたい。    海大出身者にあらざれば[#「海大出身者にあらざれば」はゴシック体]  大西は、開戦当初から、軍の作戦指導には批判的であった。  柏原《かいばら》中学の同窓生である徳田富二がアメリカから交換船で帰ってきたのを祝って、ささやかな歓迎会をひらいたことがある。昭和十七年九月末のことだ。その席上で、徳田が「ところで大西、真珠湾攻撃はあれでよかったのか?」とたずねると、大西は大きな身体をゆすって、言下に「いかんのだなあ」と答えた。 「あれはまずかったんだよ。あんなことをしたために、アメリカ国民の意志を結集させてしまったんだ。それがいま、海戦にあらわれてきつつある」  徳田は、豪快な大西が深刻な口調になっているのにおどろいて、それはどういうわけだ、と重ねて訊いた。大西が答える。 「おれは、山本(五十六)さんから真珠湾攻撃の意見を求められたとき、ハワイは機密の保持がむずかしいことと、港が浅くて魚雷が使えないことの二点を挙げて反対した。やるんなら、太平洋で戦って、真先に空母を潰すべきだと意見具申した。しかし、山本さんは真珠湾を攻撃して、戦艦を叩いたんだ。山本さんの意見では日米両国民の間に戦艦に対する尊敬心があるから、戦艦を屠《ほふ》った場合の心理的効果が大きい、というんだ」  つぎに徳田が大西にあったのは、彼がインド洋方面に出かける矢先であった。彼は、少々うんざりした顔で旧友に語っている。 「なあ徳田、日本の海軍は日露戦争当時の連合艦隊思想から一歩も出ていないんだから、こりゃダメだよ。いまにわかるよ」  徳田が旧友の顔を見たのはこれが最後であった。大西がいわんとするところは、�艦隊指導型�から�航空指導型�にならなければ勝目がない、というにある。これはすぐにわかった。  大西が徳田に話したように、開戦に先立って、山本五十六は「真珠湾奇襲計画」の立案について大西に研究を依嘱《いしよく》した。その当時、大西は少将で第十一航空艦隊の参謀長の任にあった。この部隊は台湾にあって、比島攻撃の任務をもっている。  山本が特に大西の意見を求めたのは、彼が�航空の専門家�であったからだが、もうひとつ、山本らしい趣旨が加わっている。それを、山本は大西への手紙の中で書いている。文面は正確ではないが、 「貴官は海軍大学出身者にあらざれば、海大出のごとき型どほりの着想はいたすまじく、何卒、余人には相談することなく、自由勝手にお考へ下され度候」  と、だいたい、こういう趣旨であったという。  あえて�海大出�でないことを評価したのは、いかにも山本五十六らしいが、私は山本は大西の海大受験の経緯を知っていて、彼の�実力�をひき出そうとしたのだと思う。  大西は、大胆にして細心、緻密《ちみつ》にして果敢という、�飛行機乗り�の特性を絵に描いたような人物である。頭もよく、柏原中学から海軍兵学校に入ったときの成績は、百五十人中七番であった。  海軍大学の受験は三回まで許されていた。大西は二度失敗し、最後の一回を受けたときは、教育局第三課の課員で、横須賀で飛行機操縦の教官をしている。  海兵同期の寺岡謹平は二回目の受験のとき、大西といっしょになった。控室で待っていると、試験官が入ってきて「大西はおるか」と呼んだ。大西が起ち上ると、試験官は「貴様は、もう来んでもよい」と告げ、さっさと部屋を出ていった。    「海軍軍人、芸妓に乱暴」[#「「海軍軍人、芸妓に乱暴」」はゴシック体]  その二、三日まえ、大西は部下を連れて横須賀の料亭にあがったが、座敷によんだ芸者のうち�ぽん太�というのが、終始ふくれ面をしていたらしい。大西はそれを見咎《みとが》めて「芸者というものは座敷に出たら愛想よくするものだ。それが商売だぞ」と説教した。ところが、ぽん太はいよいよ不愉快な空気をつくる。たまりかねた大西が、「しっかりせい」とぽん太の頬を打った。日頃、浴びるほど飲んでも、芸者に手をかけるような男ではない。なにかの拍子であったのだが、ぽん太は憤然として席を立ち、市内にすむ兄に殴られたことを告げた。その男が渡世人であったからたまらない。新聞記者に妹が座敷で侮辱されたことを告げたため、「海軍軍人、料亭で芸妓に乱暴」といった調子の記事が、紙面をにぎわした。  あいにく、その新聞記事の出た日が大西の受験日にあたっている。それによって試験官は「受験資格なし」と判断したもののようである。  しかし、大西は海大失格をさほど気にもしていない。江田島の海兵で教官をしていた寺岡に宛てて「キサマハゴウカク、オレハダメ」という電報を打ち、つぎに顔をあわせたときはケロッとしていたという。  海軍大学を出なくても将官になったものに野村吉三郎などの例があるが、大西も海大卒の同期生と雁行したところをみると、やはり海軍の逸材とみなされていたのであろう。  さて、大西は山本から手紙をもらうと、第一航空艦隊の幕僚をしていた源田実を電報で呼びよせ、「おい、山本長官からこういう手紙が来た。貴様、ひとつ立案してみろ」といっている。  この山本→大西→源田の関係がおもしろいと思う。指揮系統からいえば、三人とも一本の糸ではつながっていない。それを無視してつぎからつぎへと意見を求めているのだ。  昭和十三年に、大西が「空威研究会」という私的ゼミナールをつくったとき、のちに源田もそれに参加して、航空機の攻撃効果を勉強しているが、その一テーマに「真珠湾攻撃の場合」というのがあった。源田の回想によると、水平爆撃の場合、高度三千メートルから爆弾をおとせば戦艦の装甲板をつらぬけることがわかったので、三千メートルがいいか四千メートルにすべきかの議論が行なわれていたという。  源田は、山本長官の手紙を読み、一週間かかって「計画書」を書きあげた。それによると、真珠湾の深さは十二メートルしかないので、低空から発射しても六十メートルもぐる魚雷は使える見込みがないとし、急降下爆撃を主体とした攻撃を何度も行なったうえ、若干の兵力をもって上陸作戦をすべきである、となっている。  大西は源田の案とは別に「計画書」をつくり、急降下爆撃と水平爆撃とを併用すべし、と書いた。  しかし、大西も源田も山本の「真珠湾攻撃計画」には不満であった。その要点は、飛行機による攻撃が片道攻撃であり、戦艦を狙って空母を落していることである。より積極的にいえば、大西たちは往復攻撃を何べんも繰りかえし、一年くらいは太平洋艦隊が西へ出ることを防ぎとめよう、というのである。  余談になるが、山本元帥の大西宛ての手紙は兵学校の参考館におさめられていたが、終戦時にさまざまな書類を校庭で焼いたとき、あやうく火の中に放りこまれそうになった。未亡人の話によると、そのとき徴用で来ていた教員が拾いあげ、記念にすると持ちかえったまま、行方が知れぬという。  さて、大西は開戦の結果を見て、やはり納得できないでいる。巷に号外の鈴の音と軍艦マーチが流れている中で、彼は飛行機が主力であるべきことを力説し、それがわからぬ海軍大臣以下首脳はことごとく無能で、海軍は錨のマークを下げているが、それはもはや過去のもので、鷲の印にでもしないと安心できぬと公言している。公言よりも罵倒に近かったともいう。これがついに岡軍務局長の耳に入り、大西は呼びつけられて、「えらそうなことをいっているが、爾今《じこん》、口を慎め」とひどく叱られたものだ。    海軍は空軍になるべし[#「海軍は空軍になるべし」はゴシック体]  話がやや長くなったが、以上が太平洋戦争の進み方と大西瀧治郎との距離である。もちろん、大西は批判者に終っただけではなく、実戦に参加している。  ハワイ奇襲と同時に、大西の属する第十一航空艦隊が比島に殴りこみをかけるとすれば、時差の関係から真暗闇であり不可能だ。闇が明けるのを待っていれば、ハワイのニュースは比島につたわり、米空軍は手ぐすねひいて待ちうけることになろう。事実、そのとおりであった。たいていの場合、真珠湾攻撃の時間をなんとかしてくれというものだが、大西は「戦局の中心はハワイだ。われわれは我慢しよう」といって、米空軍が待ちもうける中へ飛びこんでいった。しかし、幸いにも比島には霧が立ちこめ、彼我ともに行動をおこすことができない。米空軍は待てども待てども日本軍が来ないので、ちょっと気をぬいた。そのとき、霧が晴れ、その晴れ間から日の丸をつけた一式陸上攻撃機が殺到した。天佑《てんゆう》としかいえない。  翌十七年二月、大西少将は海軍航空本部の総務部に転任する。いわば�凱旋将軍�である。五月になって、「国策研究会」が彼の歓迎会をかねて、話をきく集いをもった。出席者は、朝野の名士二十数人と陸海軍の将星である。主賓である大西は、開会|劈頭《へきとう》、いきなり立ち上がると、明快な口調でいった。 「上は内閣総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣、企画院総裁、その他もろもろの�長�と称するやつらは、単なる�書類ブローカー�にすぎない。こういうやつらは、百害あって一利ない。すみやかに戦争指導の局面から消えてもらいたい。それから、戦艦は即刻叩きこわして、その材料で空軍をつくれ。海軍は空軍となるべきである」  それだけいってのけると、彼は悠然と腰をおろして、白け切った一座を見まわして、ニヤリと笑った。  大西は実戦に参加しながら、戦局の筋道に対しては、ある程度の距離を保っている。岡軍務局長に叱られてから、海軍罵倒論を表立ってこそ口にはしなかったが、飛行機中心のプログラムを変更することはなかった。  彼が、比島に出陣するに先立って、及川軍令部総長に「特攻の方法と時期はおまかせ下さい」といったのは、開戦以来、自分のプログラムをそのまま実行しおおせなかった男の、最後の�賭け�ともみられるのである。ある種の距離感が、戦局に対する彼の眼を醒めたものにし、その醒めた一点に彼は�特攻�という非常手段をかぶせようとしたのではないか。  戦局がすすむにつれて、大西は大本営発表では撃沈されているはずの戦艦や空母が健在なのを知ると、多田海軍航空技術|廠長《しようちよう》にたのんで、戦闘機による爆撃効果を測定してもらっている。  アメリカの空母の甲板と同じ厚さの鋼板をつくり、これに高度二百メートルから二百五十キロの爆弾を落した場合の実験がそれだ。もちろん、実際に爆弾を落すわけにはゆかないので、それに相当するスピードで模擬弾をぶつけてみる。この結果、爆弾が甲板を貫通するのは、三十度以上の角度であった場合で、それよりも浅い角度だとカスリ傷にもならないことがわかった。ところが、飛行機の方はどうかというと、急降下爆撃の場合、三十度以上の深い角度で突込んでゆくと、飛行機の軸と直角の方向に揚力が働き、飛行機は次第に前のめりになって、しまいには腹を上にむけてひっくりかえってしまうのだ。この事態を抑えながら三十度以上の角度で突込むためには、操縦の練度がそうとう高くないといけない。その練度が、開戦以来パイロットの消耗が続いている海軍航空隊にあるかどうか、それをいちばんよく知っているのは大西である。  また、この戦闘機に爆弾を抱かせるという着想は、空中戦の経験者からみると尋常のものではない。  戦術的にみれば攻撃隊は攻撃兵器であるが、航空機相互の戦闘という局面ではまったく受け身になり、消極的兵器になる。つまり、戦闘機に爆弾をつけて攻撃機にしてしまうことは、戦闘機としての性能をひき下げるなにものでもないのだ。  そして、爆弾をつけた戦闘機は�必死の攻撃機�になるわけである。そこに生還の可能性があるとすれば、操縦者の腕前と士気如何ということになる。  こういう尋常ではない発想がおきるほど、彼我の航空戦力には距《へだた》りが生じつつあったことも事実であった。    特攻を具申した男[#「特攻を具申した男」はゴシック体]  猪口力平と中島正は「神風特別攻撃隊の記録」の中で、つぎのように書いている。 「昭和十八年の暮れから十九年の初めにおけるラバウル時代、すでにわが航空兵力の劣勢を憂慮した海軍搭乗員の一部の間には体当り攻撃の思想が芽生えつつあったことを認めることができる。のちに桜花特攻機(体当り専門の特攻機)の発案者となった太田少尉もその一人であった」  この�体当り攻撃�という言葉が「特別攻撃隊」という、一種の制度的な匂いをもつ言葉にかわったのは、昭和十九年七月のサイパン失陥の前後からである。 「大西瀧治郎伝」の著者が書くように「測り知れない深い歴史的な背景と、全作戦軍の澎湃《ほうはい》たる祖国愛、なかんずく、若き戦士達の不屈の闘魂」が産んだものとする考え方もある。  これらの「特攻」を望む声と大西中将との距離はどうであったか?  まず、「特攻」を望む声の代表として、城英一郎大佐と岡村基春大佐を紹介しておこう。  第三航空艦隊に属する「千代田」の艦長であった城英一郎大佐は、ラバウル空戦とサイパン沖海空戦での苦い経験から、彼我の戦力の差をつぶさに検討した結果、「もはや通常の戦法では敵空母を倒しえない。体当り攻撃を目的とする特別攻撃隊を編成し、小官をその指揮官としてもらいたい」と意見具申を行なっている。  城は、けっして�豪将タイプ�ではない。外国駐在武官として経歴が永く、また侍従武官もしている。思考も行動も節度があってスマートである。その彼が「特別攻撃隊」を口にしたのは、戦力差の計算が鮮烈すぎたためであろう。それだけに、彼の提案はある種の重みをもって、聞くひとに迫ったのである。大西中将も、その一人であった。しかし、ここでは大西の気持を紹介するまえに、もうひとりの岡村基春大佐の提案を先に書いておこう。  岡村大佐は城大佐とちがって、生えぬきのパイロットである。源田実が小林淑人という不世出の名パイロットのもとで宙返りや背面飛行を習っているころ、岡村は分隊長として指揮をとっている。  館山航空隊司令であった岡村は、昭和十九年六月十五日、第二航空艦隊が編成されて福留繁中将が司令長官に就任するや、「尋常一様の戦闘方法では現下の航空兵力を生かす道はありません」と�特攻�を口頭で具申している。  彼は、福留中将にばかりではなく、海軍部内を歩いては、めぼしい将官に同じことを繰りかえしている。もちろん、大西中将にも熱をこめて語っている。大西は、岡村を遠藤三郎陸軍中将にもひきあわせている。遠藤の「日記」は、岡村の存在とその背景を熱っぽく語っている。 「昭和十九年六月二十六日。午前、大西中将と�国を救ふものは神兵の出現にあり。すなはち、若人らの身命を捨て、敵空母と刺し違へることにより、敵機動部隊を撃滅するほかに勝利の道なし�と語りおりしに、午後二時頃、たまたま館山航空隊司令岡村基春大佐、舟木中佐これに任ぜんことを申し出きたる。ああ、神兵あらはる。胸迫るの思ひあり。自重をたのめり」  これだけでは、大西が岡村の意見に賛同していたかどうか、わからない。  だが、「大西瀧治郎伝」の著者は、岡村の提案は次第に同志を得て上申を重ね、大西の支持もあって当局の容《い》れるところとなり「かくて十九年十月、鹿島神宮の神《こう》の池《いけ》航空基地において、岡村大佐を司令とし、桜花隊の特攻訓練を開始することとなったのである」と書いている。    こうまで敵にやられては[#「こうまで敵にやられては」はゴシック体]  桜花隊特攻とは、七六二空の太田光男少尉が考え、小川太一郎工博が設計図を書いたもので、海軍の一式陸上攻撃機(一式陸攻)の胴体の下にグライダー爆弾を装着し、敵艦の上空まできて発進させるが、このグライダーには操縦者が一人乗って目標に間違いなく体当りするという特攻兵器である。しかも、このグライダーの原動機には四式一号火薬ロケットを採用している。  この桜花特攻機はマルダイ機とよばれ、第一海軍技術廠において、佐波次郎海軍少将の指揮のもとにかなりつくられた。そして、海軍軍令部と海軍航空本部とは、マルダイ部隊の編成に着手したが、その開隊準備の委員長に岡村基春大佐がえらばれ、発案者の太田少尉は母機の一式陸攻の機長を命じられている。  これが十月一日付のことである。大西が比島で特攻を決定したのは十月十八日で、敷島・大和・朝日・山桜の各隊の編成を終った旨、軍令部に打電したのは二十日の午前一時すぎである。  となると、大西が最初に特攻を決定するまえに、軍令部と航空本部は特攻という�制度的自決�を決定したことになる。この決定に助言したのが大西中将だと「大西瀧治郎伝」の著者は書いている。  また、桑原虎雄元海軍中将も、私の質問に対して、「大西君は岡村大佐らの建策を支持し、島田軍令部総長(当時)に、ぜひとも採用しなさいと進言しておった。が、軍令部はなかなか採用しなかった」と答えている。  その軍令部が�特攻�を採り上げたのは、七月二十一日、大本営が「捷号作戦」と名づける防禦作戦の根本方針をきめ、その作戦要綱に特攻兵器の考案、運用、特攻戦法などを指示したからである。  このように時間的経過を追ってみると、大西中将は�特攻�を望む声と密着し、これを実現するのに力をかしたことになる。したがって、彼が比島に赴くまえ、及川軍令部総長に「特攻の時期と方法はまかせてくれ」といったのは、特攻についての明確な意識がいわせたことになるわけだ。  ちなみに、最初に「特攻」を言葉にした城大佐は、「千代田」艦長として小沢部隊に属し、十月二十五日、まさに正規の「神風特別攻撃隊」が発進した日に、レイテ島沖海戦で艦と運命を共にしている。  また、マルダイ部隊の司令になった岡村基春大佐は、鹿屋から桜花隊を沖縄にむけて発進させていたが、終戦の日に同地で自決をとげている。  大西を「特攻の創始者」とする見方は、彼が第一航空艦隊司令長官になる以前から、以上のような「声」の支持者であったという認識に支えられていよう。  とすれば、大西海軍中将は単純明快な�豪将�にすぎない。  私は、こういう経過をたどってきて、ある人間の�人物像�が周辺の事実の集積でつくりあげられることに、われながら驚いている。この作業の過程では、|大西中将の肉声はほとんどはいってこない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  ところが、大西は城大佐の意見具申をきいたときの思いを、比島で猪口力平中佐(参謀)に語っている。  十月二十七日、つまり関大尉らの敷島隊が散華した翌々日、F6Fの編隊がはげしい銃撃をあびせてきた。鉄のスコールを思わせる銃弾の音をききながら、大西はひとりごとのように言葉を吐いた。 「内地におったとき、ラバウルから帰った城大佐が特攻を具申してきたが、わたし自身は�そんなむごいことできるものか�という気持だったよ。しかし、ここ(比島)に着任して、こうまで敵にやられているのを見ると、やはり決心せざるをえなくなったなあ」  この大西の発言は微妙である。大西は比島に飛来するまで、特攻に踏み切っていなかったことになる。    迷妄の心象風景[#「迷妄の心象風景」はゴシック体]  奥宮正武元少佐も、大西の心境の変化を指摘するひとりである。当時、軍令部にいた奥宮少佐は「大西中将は東京を離れるまでは�特攻�を使う気配さえ見せなかった」と語っている。 「それが比島にわたって一挙に結論を出したのは、おそらく半々であった気持が台湾沖航空戦や現地の有様を見ることによって、急速に特攻出撃の方に傾いたのではないか」  この猪口中佐と奥宮少佐の回想から浮んでくる大西瀧治郎の心象風景は、剛直なクロッキーで描かれた輪廓《りんかく》のつよいものではなく、むしろ迷妄の色彩がつよいのではないだろうか。  この迷妄は、大西と特攻との関係を測る、ひとつの鍵になる。  大本営が「捷号作戦」をきめ、その作戦要綱に特攻兵器や特攻戦法を書き入れたとき、それは防禦戦計画であると同時に、終戦のきっかけをつかむ一環としての意味をもっていた。  大西が、この情報から疎外されていたはずはない。前章にも書いたように、彼は東京日日新聞の戸川幸夫記者から「特攻によって日本は勝てるのですか?」ときかれたとき、「負けない、ということだ」と答えている。 「勝たないまでも負けない。それが日本を亡国から救う道である。そのためには特攻がどうしても必要なのだ」  誤解されることをおそれずにいえば、海軍中将としての大西にとって特攻は政治的手段のひとつであり、あるいはまた終戦後の日本をからくも支える哲学の母型になっている。  比島に派遣される前後の、大西の立場をすこし説明しておきたい。  十九年五月、サイパンがアメリカ機動部隊の射程距離に入ったとき、矢次が大西と話しあっている。  話すうちに、サイパンが満洲・中国・インドシナ・マレー・フィリッピンと結ぶ扇の要《かなめ》であり、ここを占領されたら咽喉に手がかかったも同然という認識が生まれた。 「だから、サイパン攻略戦をもって最後の戦闘とすべし。サイパンを守りながら和平工作を進めるべきだ」  矢次がいうと、大西は、 「そうだ。そのとおりだ。そこで、サイパンを守るには軍艦を浜辺に乗り上げさせて、敵を砲撃すべし。軍艦の巨砲が砲門をひらくと、二隻やそこらで、陸軍の八個師団に匹敵する火力になるんだ」  と力をこめていった。これは遠藤三郎中将の請売りであろう。だが、大西も信じていたらしい。彼は言葉をついで、 「しかし、先決問題として、戦う海軍省にしなければダメだな。いまの秀才官僚どもを追い出して、もっと度胸のあるやつを据えないと、事態は動かんな」  と、大きな眼を光らせていた。  大西は航空の先輩として�特攻�の意見具申には耳を傾けていたが、一方、政治的配慮も欠かしていない。  そんな大西を海軍軍令部次長に推そうという動きがあった。次長は作戦の決定者であり、御前会議のメンバーにもなりうる。画策したのは、湯沢三千男、矢次一夫、それに国策研究会の面々である。「捷号作戦」の決定をみた翌日、七月二十二日、湯沢は就任したばかりの米内光政海軍大臣を訪ねた。米内は伊勢神宮に就任報告にゆく矢先であった。 「急な用事なんです。ひとつ、大臣の力で大西中将を軍令部次長に起用していただきたい」  湯沢がそういうと、米内は眠たそうな眼で見返しながら、 「俺は今から伊勢神宮に詣でる。神様に、サイパン陥落後、これからの指導はどうすればよいかを伺ってくる。俺が自信をもって帰ってきてから、そのうえで大西のことはきめる」  と、短く言葉を切った。  このあと、大西自身が米内邸に姿をあらわしている。彼は大きな巻紙と太い筆を持ってきた。それを米内の前にくるくるとひろげると、筆にたっぷりと墨をふくませ、 「海軍再建」  巻紙一杯に書いた。 「サイパン陥落で、海軍が眠りから醒《さ》める時期がきましたな。これで、海軍省が空軍省になるきっかけができた」  大西は、航空部隊の再建の方途を述べた。  米内はしまいまで黙って聞いていた。 「わかった。おまえ、次官をやれ」  米内がいうと、大西はすかさずいいかえした。 「いや、次官よりも次長(軍令部)にして下さい」  米内は「うん」と頷《うなず》いた。米内自身はこのとき大西を次長にしたかったのだと、矢次はいっている。しかし、海軍省内の大艦巨砲主義者が承知しなかった。その反対にあうと、米内は�海軍的ずるさ�を発揮して、大西との約束を握り潰した。そうとは知らず、大西は米内とあったあと、矢次に告げた。めずらしく笑顔だった。 「米内さんは、おれの話がわかる人らしい」  矢次は、しかし、大西が次長になれないことを知っていた。大西の一年先輩の戸塚道太郎中将が、「あの男はな、省内にはいられない男なんだよ」というのを聞いていたのである。遠藤三郎中将によれば、大西が「サイパン死守」を唱えて「島田海相・末次総長・多田次官・大西次長」の�出師《すいし》の表�を提出、これが省内の反感を買ったのであろうという。    「子守唄を歌って下さい」[#「「子守唄を歌って下さい」」はゴシック体]  大西は比島に転出を命じられ、和平工作からひとつ遠のいた位置に立たされた。が、それは和平工作からはずされたことを意味するのではなく、和平工作の�条件づくり�を請負わされたともいえる。  大西は、出発に先立ち、海軍軍令部内を走りまわって、「特攻とはどのようにやるものか」を聞いている。  彼が岡村大佐や城大佐の意見具申を聞いたときとは状況がちがっている。日本は�比島決戦�という天王山に立たされているのだ。  連合軍側は、サイパン占領後の攻略目標について、三案を討議していた。既定計画どおり、比島→台湾→本土の順で攻めるか。あるいは台湾を攻略するか。それとも日本本土攻略をふくむ新計画をたてるか。周知のように、マッカーサー大将が比島攻略を強力に主張した。比島にはアメリカ軍の将兵や市民が捕えられている、これを見殺しにするようなことがあっては、心理的な反動も招くし、アジア諸国民のアメリカに対する信頼心も失うであろう、というのが骨子である。  統合参謀本部は、マッカーサー案を採用、九月十五日にニミッツ、マッカーサー両大将に「十月二十日レイテ攻略」を指示した。 「比島攻略部隊」は、いっせいに紺青の海をすべりはじめる。戦闘艦艇百五十七隻、輸送船団四百二十隻、特務艦艇百五十七隻、上陸部隊二十万名。  比島が陥落すればつぎは台湾である。そうなれば、南方地域からの戦争資源はほとんど運べなくなる。  日本側は、一週おくれた九月二十二日、比島決戦の作戦準備を発令した。フィリッピン第十四軍を第十四方面軍に昇格し、軍司令官に山下|奉文《ともゆき》大将を任命した。山下がマニラに着任したのは十月六日のことである。  大西の壮行会は十月九日の夜、軍需省の一室でささやかに行なわれた。灯火管制で部屋は暗く、暗幕に限られたスポットの下にビールが並んでいた。  大西は遠藤に手をさしのべていった。 「ずいぶん頑張ってみたがなあ。もう飛行機もつくっていられないので、戦場へ行くよ」 「そうか、行くか……あんたには行ってもらいたくないんだがな」  遠藤が答えた。大西が航空戦力の専門家でありながら、航空機が底をついた戦場に出かけゆくことのあわれさが胸に来た。  宴がおわって、暗い部屋から出るとき、大西は足立技術大佐の顔を見ると、足を停めた。彼は、足立が胃潰瘍で苦しんでいるとき、浅草の裏町に鍼灸術の名人がいるのを見つけてきて、足立を連れていっている。そのときも、人なつこい顔をして、大西がいった。 「これからはな、あんまり上等な飛行機はいらんから、簡単なやつをちゃっちゃっとつくっておけよ」  足立は、その後、三重県の津に航空工廠をつくり、愛知時計にはエンジン、住友機械にはプロペラ、三菱重工には機体を発注して、ほんとうにごく簡単な飛行機を試作している。これが�特攻用�を狙ったものであることはいうまでもない。  その夜、大西は帰宅すると、妻の母親に「最後のたのみになるかもしれませんが、今夜、子守唄を歌って下さい」とねだった。母親はやむをえず歌い出したが、嗚咽《おえつ》がこみ上げてきて歌にならない。中途から激しく泣き出した。  妻の淑恵が「私が歌ってあげましょうか」というと、大西は「ふん」と鼻先で笑い、「年下のものに子守唄なんか歌ってもらえるか」といった。それから「では、自分で歌うか」というと、寝床の上にドタリとひっくりかえって、※[#歌記号、unicode303d]坊やのお守りはどこへいった、を歌い出した。同じ歌を二度も三度も繰りかえしている。大西の歌は�海軍の三音痴�といわれるほどひどいもので、彼に歌い出されると、正しく歌っているものまで調子が狂ってくるという。  淑恵は、しかし、その夜の歌は妙に味わいがあったと述懐している。大西は「子守唄」を歌いおわると、こんどは「ばらの歌」をうたい出した。  小さい鉢の花ばらが  あなたの愛の露うけて  薄紅の花の色  昨日、始めて笑ったよ  節廻しはエール大学応援歌のそれである。歌いおわると、子どもにいうように「さ、もう寝ましょう。いつまでも起きていちゃいけません」とひとりごとをいい、寝巻に着かえて寝床に入ると、「うむ」と伸びをして、三秒としないうちに豪快なイビキをかきはじめた。淑恵は、まだふざけて狸寝入りをしているのかと思い、「あなた」と声をかけたが、イビキは崩れなかった。  翌朝、大西は遠藤中将に電話をかけ「これから行きます。あとをよろしく」と、それだけいった。遠藤が「ご武運を」というと「はい、ありがとう」と電話を切った。東京を発って福岡に着き、筥崎宮《はこざきぐう》で武運長久を祈って、鹿屋基地まで飛ぶ。そこで「沖縄大空襲」の無電が入った。大西は「支那大陸より発進せるB29の編隊」という電文を読むと「そんなことあるものか」といった。「これは大陸からではない。機動部隊の戦爆連合だよ」  大西のカンは当っていた。当ったのが不幸である。制空権は決定的に敵の手におちている。大西は鹿屋から上海に飛んで敵をかわし、上海で一泊すると、こんどは一気に台湾の高雄に入った。その彼の面前で、台湾沖航空戦が華やかに繰りひろげられたのは、彼が高雄から豊田副武連合艦隊司令長官のいる新竹に飛んだ直後である。  この航空戦の戦果確認のミスが「レイテ決戦」を左右しようとは、さすがの大西も気がつかなかった……。 [#改ページ]    第 三 章    豊田大将との秘密会談[#「豊田大将との秘密会談」はゴシック体]  大西中将は、高雄につくとすぐ「豊田大将はどこかね?」と訊ねた。「新竹であります」と門司大尉が答えると「すぐにゆこう」といった。  高雄から新竹まで飛んだ。  新竹に着くとすぐ、連合艦隊司令部に豊田副武大将をたずねた。大西と豊田は一室に閉じこもって余人を避け、二人だけで永い間話しこんでいる。このときの会談の内容は、ついになにびとにも知らされていない。  推論によれば、大西は�特攻機出撃�の必要を豊田に説いたというのだが、私はむしろ東京の海軍軍令部の�特攻使用�の意向を伝えたのではないかと思う。いや、それ以上に、アメリカ統合参謀本部の「比島攻略」決定が日本の戦力におよぼす影響について話しあい、比島で死闘を展開することによって、当時ひそかに進められていた「和平工作」の成果を待とうと、そこまで話はいっていたのではないかと思われる。 「特攻発進」は当時の「機あれど機なし」という戦況の下で、現地の第一線将兵の間から澎湃《ほうはい》として起った思想である。「国敗れてなんの海軍ぞ」という思想もまた、「一機一艦」の戦果を集積しようという戦術の基盤になっていたであろう。それはそれとして事実である。    水平爆撃か特攻か[#「水平爆撃か特攻か」はゴシック体]  しかし、ここで区別しなければならないのは、特攻を主張し、これを敢行したのは「現地部隊」であるが、特攻を採用したのは「政治」であるということだ。  大西と豊田の会談が「特攻」に触れているとすれば、それは政治的効果にまで言及したにちがいないと、私は思う。  大西は、このあと、第二航空艦隊司令長官の福留繁中将にあって、またもや二人きりで、数時間も話しあっている。このときの内容は、福留中将によって、あきらかにされている。  それによると、  ——大西君と私は海兵の同期であったし、腹蔵なく話しあえた。大西君は一航艦の司令長官として�特攻�をきめたあとなので、私の二航艦からも�特攻�を出せと、しきりにすすめた。私のところは飛行機もあり、戦爆連合を組むことも可能だったので、「特攻」をことわり、水平爆撃で攻撃をかけると主張した。それでも大西君は、なかなか「そうか」といわなかった。いまが「特攻発進の時期だ」と強調してやまなかった……。  結局、二航艦からも�特攻�が出るのだが、これは福留のいう戦爆連合による水平爆撃がたいした戦果を挙げなかったのを見て、大西が「それみろ、だから�特攻�を出せというのだ」と、つよくすすめたのが動機となっている。いや、そういうふうに福留中将は回想している。 「水平爆撃」か「特攻」かという問題提起をすると、まさに大西中将は�暴将�の札をひくことになるのだ。しかし、「水平爆撃」が戦術であり、「特攻」が政治であるという視点から見直すと、大西像はもうすこしちがったものになるだろう。  大西像はとにかくとして、「特攻」は�政治�であったから、まさにそれだから、海軍飛行予備学生は「お母さん、これは犬死ではありません」と遺書に書けたのだ。彼らは、「特攻」の中心にある�政治性�を、死に直面した人間の透明な眼で洞察している。その洞察が正しければ正しいほど、若い生命のいかばかり憾《うら》み多かりしかと、それがあわれでならぬ。  海軍少尉・安達卓也が書いている。安達少尉は、昭和二十年四月十三日、沖縄をとりまく米艦隊の真只中に突入していった。 「『あとに続くを信ず』とは、単に死を決して戦う者の続くことを信ずるのではなくして、特攻隊の犠牲において、祖国のよりよき前進を希求するものにほかならない。たとえ明哲な手腕の所有者ならずとも、いかなる悲境にも泰然として揺がず、しかも身を鴻毛《こうもう》の軽きに比して、潔癖な道義の上にのみ生き得る大人物の出現こそ、真に国を救うものだ。いかに特攻隊が続々と出現しても、中核をなす政府が空虚な存在となっては、亡国の運命は、晩《おそ》かれ早かれ到来するであろう」(「あゝ、同期の桜」より)    「こいつ、死んだよ」[#「「こいつ、死んだよ」」はゴシック体]  ここで陸軍の側から「特攻」を眺めてみたい。私自身が第三期特別操縦見習士官であり、私の同期生の半数以上が「特攻」となって沖縄で散華している。このことを知らせてくれたのは、富山県の教育委員会に勤める萩本孝であった。富山に講演にいった折、萩本元陸軍少尉は、宿に私を訪ねてきて、風呂敷包みから一枚の写真をとり出した。  学生服を脱いですぐ飛行服を着た若ものの顔が並んでいた。飛行教導学校の頃の一葉である。 「こいつ、死んだよ、沖縄で」 「特攻か?」 「うん。こいつも。こいつ、ホラ、同志社大学から来た、歌のうまいやつ、やっぱり沖縄だ」 「みんな沖縄だな」 「そう、みんな特攻だ。数えてみると半分は、もってゆかれたな」  萩本と私は、一枚の写真に頭をくっつけるようにして、視線をおとし、黙って見つめていた。若い見習士官の並ぶ背景は、鬱蒼とした夏木立である。朝は霧が流れ、起床ラッパよりも先にカッコウが鳴き出すのだった。 「こいつもいったのか、この国士舘大の、柔道のつよいやつ」 「そうらしい。なあ、草柳。この写真を眺めていると、いま、おれはどうしたらいいんだ、という気持になってくるんだよ」  薄暗い電灯の下で、萩本の眼は光っていた。彼は、剣士であるだけに、眼に光茫があったが、「いまおれはどうしたらいいんだ」という時の眼は、また一段と異様であった。こいつ、明日にでも出撃するのではないかという、妖《あや》しい錯覚にひきずられて、私はあわてて現実に戻った。 「おれは、いま、海軍の特攻隊を出したといわれている大西中将を中心に調べている」 「陸軍は、誰がきめたのか?」 「それがよくわからないんだ」  私は、取材の途中で、ある陸軍技術将校が「いまは、みんな口を噤《つぐ》んでいるが」といったのを憶《おも》い出した。しかし、萩本には告げなかった。告げてすむ問題ではなく、萩本や私の「おれはどうしたらいいんだ」という気持を埋めることもできない。次元がちがう問題だと思う。萩本は、写真を大切そうにしまってから、いった。 「そうか、海軍の方は、大西中将というひとがきめたのか」 「うん、特攻の創始者といわれている。しかし、おれはそういういい方に疑問をもっている。特攻はひとりの人間がきめられるものではない」 「そりゃそうだな」  陸軍航空技術研究所は、五百項目の研究テーマを抱えて発足した。昭和十一年のことである。研究の主力は、優秀な戦闘機づくりに注がれた。太平洋戦争の初期には、新機種が続々と誕生し、さかんにテストがおこなわれていた。ジャワ沖海戦の後から新しいテーマが登場した。  海軍はやがて艦船攻撃に手一杯になるであろう。陸軍航空隊がそれを引受けざるをえまい。「研究項目」に「艦船攻撃」を加えようではないか、という声が出た。 「飛行第七五戦隊」の竹下正寿陸軍少佐は、まず爆弾から変える必要があると隊員に話している。  日本の爆弾はイタリア式できれいな流線型に仕上っている。これだと、船の甲板に当ったとき、信管がはずれて黄色火薬がこぼれでるおそれがあった。  昭和十八年三月、陸軍航空技術研究所の「研究項目」に「艦船に対する爆弾の研究」が加えられた。序列は第二位であった。陸軍がこのテーマをいかに重視していたかがわかる。研究班の主任に水谷栄治郎中佐が就任した。水谷は軽爆出身のベテランで、新機種のテストパイロットとしては折紙付きである。  陸軍は海軍に�共同研究�を申込み、艦爆や艦攻に乗せてもらって、艦船攻撃、ことに魚雷攻撃のやり方を教えてもらった。海軍の方は、陸軍の航空部隊からなにも教えてもらおうとしていない。    反跳爆撃法の猛練習[#「反跳爆撃法の猛練習」はゴシック体]  竹下少佐によると、この艦船攻撃の訓練中に、反跳《スキツプ》爆撃法《・ボミング》が考案され、浜名湖や真鶴海岸でさかんに練習されたという。これは「第一次神風特別攻撃隊」の母体となった「二〇一空戦闘機隊」が、特攻発進のひと月まえに、セブ島の基地で練習していたのと、まったく同じ方法である。  反跳爆撃法というのは、ちょうど子どもが池や川に石を投げて、水面を切りながら跳ねさせるのと同じで、投下した爆弾をいったん海面に叩きつけ、その反動で空中にとばして敵艦に命中させる方法である。  陸軍の場合だと、亜成層圏から敵目標に接近し、彼我の距離千メートルあたりから一気に急降下して、海面三メートル(軽爆の場合。重爆だと十メートル〜二十メートル)で機を水平にたもち、爆弾をスキップさせる。このときの艦船までの距離は二百メートル、時間にして二十秒だ。だから、スキップするや、すぐ機首をあげてマストすれすれに離脱する必要がある。  この訓練は、最初、横浜港内の船にむけて行なわれたが、危険を伴うので、浜名湖と真鶴海岸に移された。真鶴海岸がえらばれたのは、そこに�三つ石�という岩礁が海の中に突き出し、その恰好が軍艦そっくりであったからだ。  昭和十九年五月、この爆撃方法をほぼ完成した竹下少佐らは、貴重な資料を抱えて、陸軍参謀本部と同航空本部に報告にいった。若葉の美しい日であったと、竹下少佐は記憶している。  その述懐があるのは、ときすでに陸軍航空部隊の中に「体当り攻撃」の思想が芽生え、具体的な方法論が日程に上っていたからである。反跳爆撃がうまくゆけば、�体当り攻撃�の実行を先制しうる。その思いが、竹下少佐に若葉の燿《かがや》きを感じさせたわけだ。  この反跳爆撃には、しかし、爆弾の構造的な問題があった。攻撃機は、要するに敵艦の甲板よりも低い高度で進入し、爆弾を海面に叩きつけねばならない。その際、速度は五百キロを必要とした。このスピードから爆弾を叩きつけないと、反跳しないで海中に潜ってしまうのである。  ところが、この叩きつける力が強すぎて、従来の爆弾では尾の部分が曲ってしまい、あらぬ方向へ飛んでゆく。そこで「航空技研」では、弾尾の研究と信管の改良に大汗を流し、十九年春にそれを完成している。  参謀本部は、竹下少佐らの意見を入れ、戦闘・軽爆・重爆の戦隊から優秀なパイロットをひきぬいて、�スキップ爆撃隊�を編成、特訓に入った。  しかし、このスキップ爆撃法は、アメリカ空軍が一年まえに実用化していた。昭和十八年三月のビスマルク海戦で、日本側はこの奇妙な攻撃法にかなり悩まされているのだ。その状況を、竹下少佐はアメリカの雑誌記事で読んでいる。「先を越されたな」と思った。が、この方法を開発することは、「体当り」という切札に指がかかる瞬間をひきのばせるはずであった。  おもしろいことに、猪口力平・中島正共著の「神風特別攻撃隊の記録」にも、この反跳爆撃法がでてくるが、両氏は「反跳爆撃は空戦と違って割合に簡単だから、その技量よりもむしろ精神が大切で、敵との距離や投下高度の判定を誤らない沈着ささえあれば、まず成果をあげうるものと期待できた」としながらも「この爆撃法はやり方がやり方なので、一〇〇中の九九は自爆となり、生還は至難と予想された」と、評価している(その理由については後に述べる)。しかし、二〇一空の搭乗員は「生還至難」を覚悟のうえで、反跳爆撃隊を志願した。この期に及んでは、目前に迫った敵機動部隊の撃破以外に救いはないとの判断である。  問題はこれからである。猪口・中島両氏はここまで書いてきて、つぎのように結んでいる。 「しかし、こうした戦闘機搭乗員をはじめ基地全員の強い決意と努力にもかかわらず、反跳爆撃法は実戦にはついに用いられなかった。というのは、その具体化の前にダバオ事件が起きて、機数の不足をきたし、特別攻撃法の採用を招来するに至ったからである」    完全な「殺人機」[#「完全な「殺人機」」はゴシック体] 「ダバオ事件」については後で紹介したい。一口にいえば、見張兵が海面の白波を水陸両用戦車と誤認、このため比島根拠地隊から一航艦までテンヤワンヤの�幻の敗走�を現出した事件である。  その「富士川の水鳥の羽音におどろく平家のさま」はとにかく、この混乱時に「二〇一空」は�虎の子�の百機のうち六十機余を撃破され、兵力わずか三十機となってしまったのである。  大西中将が寺岡中将の後任としてマニラに降り立ったのは、まさにこのような状況の下であった。  猪口・中島両氏は、読んでわかるように、「反跳爆撃法」と「特攻」とを同一線上にはおいていない。「機数不足」という条件を「特攻」への踏み台として使っている。  陸軍の内部でも、「特攻」という概念は、正否の議論の交叉点にあった。  昭和十九年七月七日、真夏の光の中を、陸軍省にほど近い民間人の邸宅に、黙々と吸いこまれてゆく人影があった。これが、秘密裡に「特攻発進」を協議した、陸軍の「市ヶ谷会議」とよばれるものである。  寺本中将、隈部少将、水谷大佐、酒井少佐、それに竹下少佐など、陸軍参謀本部、同航空本部、航空技術審査部、それに実戦部隊から、指名されたものが顔を並べた。  サイパン失陥の戦況が航空関係者の心理を居たたまれぬものにしていた。そのうえ、海軍の健闘と惨敗が、陸軍をかなりムキにさせたともいえる。  陸軍でもこれまでに�体当り�はあった。敵機に体当りして撃墜したり、戦車群の中に突入したりしている。しかし、それらは海軍の�体当り�機と同様に、偶発的であり玉砕をえらぶという姿であった。つまり、「制度としての特攻」ではなかった。 「市ヶ谷会議」の席上、突如として、陸軍航空本部の代表から「生還を期さない体当り機の研究を始めてもらいたい」と発言があった。 「それは無茶です」と、酒井少佐や竹下少佐が反対した。「艦船攻撃ならばほかに方法がありますよ」 「いや、体当り機の搭乗員には�志願制�をとるんだ。そのかわり、絶対にぶつかるしか方法のない飛行機をつくってくれ」  結局、参謀本部と航空本部がもち出したのは「いったん離陸したら、二度と着陸できないような信管をつくれ」であった。  これは、いかに�志願制�をとるとはいえ、完全な「殺人機」である。海軍の「特攻機」も、末期には「桜花」のような人間グライダーが開発されたが、それでも敵がいなければ一旦は帰還できる。「神風特攻隊」のタイプは、零戦が二百五十キロの爆弾を抱えたものであって、これは機体の故障が原因でも帰投できる。  しかし、「市ヶ谷会議」の発想は、飛行機そのものを�必殺機�にして、�体当り�を完結させようとするにある。  反跳爆撃の訓練のベテランであった岩本少佐は、中途で南方前線におくられたが、帰還命令が出て帰ってみると、「特攻隊隊長」に任ぜられ、この�殺人機�に乗りこむことになった。その岩本を愛知県|各務原《かがみはら》の陸軍特攻基地に竹下少佐がたずねた。  竹下は「あまりにも残酷な飛行機」に腹を立て、懸架された爆弾の風車をちょっとかえれば、着陸しても爆発しないと、ひそかに教えたのだ。この、�殺人機�に乗っても万一の場合は帰還できる方法は、「何度も出撃して徹頭徹尾戦うのこそ、軍人ではないか」という思想に支えられて、一部の特攻隊員にはゆきわたったという。    �悪魔の頭脳�が考えた[#「�悪魔の頭脳�が考えた」はゴシック体]  ところが、航空技術本部は、さらに徹底した�殺人機�を開発した。それは、離陸してから機内の綱をひくと、両車輪が落ちて、二度と着陸できぬ仕掛けのものだった。  このような開発を支えていたのは、海軍の特攻隊発進のたびにエスカレートする、陸軍部内の「体当り常道論」であったといわれている。もちろん、「特攻は統率の外道」という思想から「体当り常道論」に反対する意見はあったろうが、特攻機そのものの非人道性は蔽《おお》うべくもないのだ。当時の軍指導者たちは「特攻は志願制であった」と強弁するが、志願制は統率の責任の消滅を意味するし、だいいち、志願しなかった場合に受ける制裁の凄さは、高木俊朗氏がしばしば記述しているとおりである。  私は、いまさら「体当り常道論者」を探し出して、その責任を問うつもりはない。そんな意味でこの文章を書いているのでもない。ただ、問題は、いったん「体当り常道」という心境の壁を乗りこえてしまうと、こんどは科学技術を駆使して、手段を肥大させる属性が人間にあることを指摘したいのだ。  これは「体当り常道論」と「殺人機」の関係ばかりではなく、平和な社会の中でも、たとえば「経済的発展」と「環境破壊」という姿になってあらわれるのではないかと思う。人間という原点を超えた価値に優位性をあたえると、人間は人間を破壊するための手段を見事な明快さと素晴しいスピードで開発してゆくのではないか。その恐怖の原型を、陸軍航空本部内の思想と特攻機との関係に焼き付けて見ることができる。  升本清がその著書「燃ゆる成層圏」で述懐している反省は、同時に「市ヶ谷会議」がいかに�悪魔の頭脳�に充ちていたかを物語っている。 「私は一般の爆撃機を特攻機に改修する場合、無線装置だけ残し、他の一切の装備品を取りはずして、重爆では二トン、軽爆では一トンの爆弾を装置できること、その際の全備重量、飛行場設備に関係のある離陸滑走距離および|片道の《ヽヽヽ》航続距離の計算値を説明した。技術者の一人として新兵器の説明をするならば名誉でもあるが、このような計算をして、こんな場所で発表せねばならぬ自分の無能を大いに恥じた」 「軽爆では一トン」である。零戦特攻は二百五十キロ爆弾だから四機ぶんに相当する。�体当り�の規模がエスカレートしているのだ。  一方、竹下・岩本両少佐の�スキップ爆撃法�はどうだったか。竹下少佐によると、「かなり練度はあがったが、レイテ島戦がはじまったので沙汰止みになった」という。  さて、そのレイテ島戦は重大な誤認の下に開始された、のである。この「誤認」からひき出された作戦の糸の上を、大西瀧治郎は黙々と、しかし、苦《にが》り切って歩いていたのではないかと思われる。    幻の台湾沖大戦果[#「幻の台湾沖大戦果」はゴシック体]  昭和十九年十月二十日、大本営は「レイテ湾に来攻した敵主力に対し、空、海のみならず地上軍をも指向し、ここに国軍の総決戦を求める」との方針を打ち出した。これは、明らかに、それまでの「地上決戦はルソン島」という方針の変更であった。  大本営が「ルソン島決戦」を堅持していたのは、空、海ともにアメリカ機動部隊の制圧下にあっては、比島全土に随時随所に兵を動かすことは困難だから、よしんば米軍が比島の中、南部に上陸しても、決戦はあくまで北部のルソン島でと考えていたのである。  つまり「ルソン島決戦」は彼我の海上機動力の差が前提になっていた。それが「レイテ島」に変更されたのは、その前提が崩れたからである。簡単にいえば「アメリカ機動部隊は�海底艦隊�になった」という認識、というより誤認が基になっている。  その誤認をつくったのが、十月十二日から五日にわたる、台湾沖航空戦であった。大西中将は、この航空戦のため、新竹の防空壕で三日間をついやしている。その間に、彼は豊田副武連合艦隊司令長官と終日しゃべり続けたのであった。  十月十九日夜六時、大本営は「我部隊は十月十二日以降連日連夜台湾及び�ルソン島�東方面の敵機動部隊を猛攻し、其の過半の兵力を壊滅して之《これ》を潰走《かいそう》せしめたり」と発表、「我方の収めたる戦果」をつぎのように並べてみせた。しかし、それは実際とはあまりにもかけ離れていた。   艦種  轟撃沈 撃破 実際  空母    11  8  0  戦艦    2  2  0  巡洋艦   3  4  2  艦種不詳  0  13  0  巡又は駆  1  1  0  合計すると、轟撃沈が十七隻、撃破が二十八隻になる。これでは「アメリカ機動部隊は�海底艦隊�になった」と思うのも無理はない。ことに空母は撃沈・撃破で十九隻なのだ。しかし、キング元帥報告書にもあるように、「敵航空機のきわめて巧妙なる攻撃」によって巡洋艦二隻が損傷を負ったのみである。しかもその二隻は、飛行機に護衛されて無事に基地に帰投したのだ。  富永謙吾によると、海軍部は戦果がどうもあやしいと気がつき、十七日ごろ、東京に連合艦隊や攻撃部隊の関係者をあつめて、再調査を行なっている。その結果、「どう有利に見ても、航空母艦四隻を撃破した程度で、撃沈艦は一隻もなし」とつかんだ。この程度の認識なら救われるのだが、ところが、どういう事情からか、この数字は陸軍部には通報されなかった。  もし、通報されていれば、敵機動部隊はいまだに健全、したがって「ルソン島決戦」の方針は変更されなかったのであろう。  ところが、陸軍部は�台湾沖の赫々《かつかく》たる大戦果�を信じこんでいた。二十一日には勅語さえ下されたのだ。  この誤認の下に「ルソン島決戦」は「レイテ決戦」にかわり、参謀次長、作戦課長、作戦主任参謀がこの重大変更を告げるべく、東京からマニラに飛んだ。  これを迎えに出た比島方面軍司令官山下奉文陸軍大将は、作戦変更をガンとしてハネのけた。富永は山下の言葉をつぎのように伝えている。 「台湾沖航空戦の成果がどうであろうと、敵がいま比島の一角に来攻したのは、今までの敵の堅実なやり方から判断して、兵力と準備に確信あってのこと、こちらは何の準備もしていないレイテに、突如大兵力を差し向けても、予期する戦果は収め得ない」  山下大将の判断は正しかった。が、幻の戦果に踊った大本営参謀と南方軍は、「レイテ決戦」で押し切った。    最後のZ旗[#「最後のZ旗」はゴシック体] 「誤認」から作戦の糸が吐き出された。連合艦隊は、航空兵力の不足を承知の上で、敵の上陸地点を叩くため、行動を開始した。  太平洋戦争史上、三たびZ旗が上った。そして、これが日本海軍最後のZ旗であった。  これは「台湾沖航空戦」の戦果を知っている海軍としては、解《げ》せぬ行動ではあるが、豊田司令長官の胸中には無為にして自滅するよりは、大戦艦武蔵以下の海軍の主力に花を咲かしめようという思いがあったのであろう。また、戦略上からいっても、武蔵以下がリンガエン湾に突入して、巨砲の火を吐けば、米軍はぬきさしならぬ損害を蒙るはずである。問題は、しかし、航空機の護衛なしにその作戦行動が可能かどうかである。  大本営参謀の種村佐孝陸軍少佐は、その「機密日記」につぎのように書いている。 「十九年十月十九日 比島決戦の発動に伴ひ海軍は連合艦隊の出撃作戦を企図し、これに要するタンカー六隻の徴傭《ちようよう》を申し出て来た。現在石油節約のため、昭南島(シンガポール)附近に集結訓練してゐる連合艦隊を、レイテ決戦正面に裸で出撃させようといふのである(中略)。木更津にゐた連合艦隊司令長官豊田大将は、マニラまで出かけて戦闘指揮するといふけれども、放り出される艦隊の運命たるや気の毒なものだ。坐して飛行機の好餌となるよりは、死地に投じて死花を咲かせようといふ、やぶれかぶれの決戦思想であった。タンカー徴傭に反対すれば、連合艦隊の出撃が阻止されるのであれば、陸軍は飽くまでタンカー徴傭に反対しようといふ強い意見が省部の間に起ってきたが、第一部としては、この海軍の作戦に真向から反対することは、従来の立場上出来ないといふので、ウヤムヤで海軍のなすままにまかせるより外はない状態であった」  海軍は陸軍への「戦果通報」を忘れ、陸軍は海軍の�艦隊特攻�をひややかに見送っている。大本営の中は�重大決戦�を口にしながら、官僚化がはじまり、これが混乱に輪をかけていた。  大西は、生来、官僚的な匂いを好まぬ男である。だいいち、軍服を着たがらない。  郷里の青垣町に足立鶴松という床屋がいるが、大西はいつもヨレヨレの浴衣を着て、「やってくれ」と入ってくる。髪を刈っているうちに、眼と鼻の大きな風貌に気がついて「大西閣下ですか?」ときくと、うるさそうに「ウ、アア」と返事をするのだった。  彼は甥の憲三をかわいがっていたが、その憲三も大西の軍服姿をあまり見たことがない。昭和十五年十一月二十三日、大西は帰郷するにあたって、宝塚にいた憲三に電報を打ち、そこからおれの乗っている汽車に乗ってこいといった。  憲三がその汽車を待ちかねて飛び乗り、車中を往復して探したが、海軍大佐の服装はついに見かけなかった。もう一度探すと、顔にかけた新聞紙から大きな耳をはみ出させて、正体もなく寝入っている男がいる。背広姿だったが、それが大西であった。  この男のエピソードを聞くたびに、それが誰によって語られていても、いつも規格からハミ出している人間を思わせるから不思議だ。本人は豪快ぶったり、眼を剥いて武人らしく装ったりしないのだが、普通にやることが規格からハミ出しているのである。    参謀長ならぬ乱暴長[#「参謀長ならぬ乱暴長」はゴシック体]  海軍中尉のとき水上機の練習をしていて、海中に墜落した。幸い、飛行機にはフロートがついていて沈没しなかった。ひと晩じゅう漂流しているところへ、「霧島」が救助にいった。艦長は高橋三吉(のちの海軍大将)である。びしょ濡れの中尉に「大丈夫か?」と訊ねた。すると大西中尉は股間をおさえ「どうも病気をしておりますので海水がしみて困ります」といい放った。これには高橋艦長がびっくりして、すぐ軍医のところにつれていったという話がある。  このような性格の野放図さは、尉官から将官まで一貫して、あらわれるのである。  軍需省の航空兵器総局におくりこまれたとき、海軍側は「大西なら陸軍にヒケはとるまい」との魂胆があった。陸軍側も遠藤三郎中将を同じような狙いで送りこんでいる。ところが、大西は長官の椅子をさっさと遠藤にゆずり、自分は下位の総務局長になって、「遠藤さん、航空機の配分ですがね」と口火を切った。  当時の物資動員計画局長は椎名悦三郎である。陸海軍がことごとく対立するので、航空器材は軍が九五%、民間が五%とわけ、軍のぶんは陸海軍の話しあいにまかせている。 「遠藤さん、あなたがいいように配分して下さいよ。海軍のバカドモは、海軍の飛行機をたくさんつくってくれれば海軍はやる、なんていっているが、海軍だろうと陸軍だろうと空は空ですよ。半々でいいじゃないですか。海軍大臣が率いるのを第一航空部隊……」 「陸軍のを第二航空部隊としますか」 「それでいいハズです」  遠藤は、この考えに同意し、文書に書いて陸軍部内にバラまいた。早速、東条首相によびつけられて「余計な意見をいうな」と叱られた。癪にさわって富永次官や秦彦三郎参謀次長に噛みつきにゆくと、秦が、 「君はああいう文書を、敵側《ヽヽ》に出すとはなにごとか」  と、怒ったそうだ。そこで遠藤は「君はアメリカと戦争しているのか、日本の海軍と戦っているのか」と尋ねたというが、それほどひどい対立だったわけである。ところが、大西は陸軍がどうの海軍がどうのと、一度も口にしたことがない。  ただ、意見が対立すると、すぐ腕力におよんだという話が、いくつでも残っている。それで参謀長になると「あれは参謀長ではなく乱暴長だ」といわれ、ふだんは「喧嘩瀧兵衛」と綽名される始末であった。  その喧嘩の経緯がおもしろい。たとえば山口多聞との乱闘である。  昭和十五年、重慶に入った蒋介石軍に対して、第一、第二、および南支連合航空隊が合同して、一挙に攻撃をかけようということになった。  各航空隊の司令官が山口、大西、寺岡謹平である。それに左近直允という特務機関長が加わった。いずれも海兵同期の少将である。左近は太平洋戦争中に第十七戦隊司令官になり、戦後、オーストラリアの捕虜虐待の罪を問われて、香港で刑死している。  四人は漢口にあつまり、曙荘というクラブで飲んでいたが、先任の山口多聞が中央からの指令を受けている関係で、「重慶爆撃は各国大使館もあることだし、慎重にやらないといかんぜ」と念を押した。これが大西の癇にさわった。 「なにをいうか」と大きな眼を光らせた。 「日本はいま戦争をしているんだ。イギリスだってヨーロッパで敗けかかっているじゃないか。アメリカも戦争に文句はあるまい、絨毯《じゆうたん》爆撃で結構だ」 「大西、馬鹿なことをいうんじゃない」 「ふん、へっぴり腰。だいいち、貴様のところのあの飛行機はなんだ。古くてガタガタじゃないか」  ここで山口が盃を投げつけ、徳利をつかんで大西に打ちかかる。寺岡や左近がとめようとする間もあらばこそ、二人は組んずほぐれつの大喧嘩になったという。  それからまた和解して飲み直したが、山口が「おれも徹底的に叩きたいんだが、中央が重慶は慎重にやれ、というんだ」と告白すると、大西は一言、「それが戦争だよな、山口」といって、ひっきりなしに盃を干していたという。    三分の一に減った戦闘機[#「三分の一に減った戦闘機」はゴシック体]  大西の判断に見られるものは、一見して雑駁《ざつぱく》だが、つねに�第一義�のものを洞察する能力である。これが、彼の私的行動も、司令官としての行動も規制しているように思う。  たとえば、彼には艶やかな話題がかなり多い。ほとんどが芸者相手の話である。横須賀航空隊の司令をしている頃、酒に酔って、芸者を人力車にのせ、自分はカジ棒をとって市内をひきまわしたという話がのこっている。海軍士官としては、マナーに欠ける行動である。常軌を逸しているという非難をあびても仕方がない。  ところが、彼は宴席や閑話の折でも、絶対に�房事�を口にすることがなかった。芸者を眼の前において戯れることはあるが、男どうしの席では、けっして女の話を口にしなかったという。  大西はそれを節度と心得、時と場所をわきまえず女性の話をする男をひどく嫌い、ときには「下品なことをいうな」と、凄い眼で睨みつけたという。  これらのエピソードは、彼の性格をかなり輪廓づよく物語るものだと思われる。  山口多聞との乱闘も、要するに「それが戦争だ」ということの再確認があったし、男どうしの話題に「房事」を避けるのも、彼の好きな「一期一会」を守りたいからであろう。  大西瀧治郎という男は、いってみれば、論理や説明を意識の底に沈澱させ、そこから生じる�うわ澄み�の価値を掬《すく》って、それを行動原理としていたのである。  米軍の空襲で汽車の中で足留めを食ったとき、大西には一室があてがわれたが、副官の門司親徳大尉には部屋がなかった。通路に新聞紙を敷いて横になり、浅い眠りに陥ちた。 「おい、副官、副官」  身体をゆり動かされて、門司が眼をあけると、大西が大きな身体で立っている。シャツとステテコ姿であった。 「オレの部屋で寝ろよ」  そういって、大西中将はさっさと先に立って歩き出した。門司が後からついてゆくと、寝台はひとつしかない。大西は先に寝台に入ると、器用に身体を片隅によせて、「さあ、入ってこいよ」といった。 「君は、オレの足の方を枕にして、お互いにぶっちがいにして寝ようや」  汽車が新竹に着くまで、海軍中将と海軍大尉は、互いに相手の顔に足をくっつけて睡りこけた。  門司大尉は、この寝台の中で、大西の中の�人間�を感じている。彼は海兵出身ではない。東大経済学部から海軍主計将校になり、空母「瑞鶴《ずいかく》」に乗艦してハワイ奇襲に参加したのを皮切りに、ラバウル、ニューギニア、ミッドウェー、トラック島、マリアナ沖海戦と、大きな戦闘をくぐりぬけて、寺岡中将が一航艦の司令長官になったとき、主計から副官に転じている。  その門司にとって、大西瀧治郎という人間は海軍中将からはみ出す、|なにか《ヽヽヽ》を持った人間として映った。その�|なにか《ヽヽヽ》�は、大西が海軍軍令部次長として第一線を離れるまで、しばしば門司の心情にある種の陰翳《いんえい》を落している。  その大西が、軍人生活の最後の前線司令長官としてマニラに着いたのは、十月十七日のことだった。この日、マッカーサーの先導部隊がレイテ湾口のスルアン島に達した。それを台湾で知ると、大西は「敵がきた。早くゆこう」と副官をせき立て、西側からマニラに滑りこんだ。  マニラの空は雲がちぎれ飛んでいた。台風が過ぎさろうとして、時折、熱い雨を椰子《やし》の林や白い建物に叩きつけていた。  翌十八日、フィリッピン諸島に散在する日本軍基地は、米軍機の一方的な空襲をあびて、息をころしていた。爆撃と銃撃が繰りかえされる中で、一航艦の先任参謀猪口力平中佐は「いよいよ上陸してくるな」と呟いた。  迎え撃とうにも、一航艦の主力は戦闘機がわずか三十機である。かつての一航艦は角田中将の麾下《きか》、艦上戦闘機だけでも五百機をこえ、全機数あわせると千六百機におよんだ。しかし、その充実した戦力でさえ不覚をとったハルゼー大将麾下の機動部隊が、いまレイテ島にひた押しに押してきている。 「三十機か、三十機をどうするかねえ」  猪口中佐は、ダバオ事件以来、そのことばかり口ずさんでいた。  ダバオ事件とは、前にもすこし紹介したように、見張兵の虚報が原因となって、マニラの日本陸海軍が右往左往した事件であるが、じつは航空機に�実害�が出ていたのだ。 「二〇一空」は司令部からの情報(じつは虚報)により�虎の子�の百機をマニラやダバオからセブ島に避退させていた。これは基地の大きさから見ると、過集中であった。  ダバオ事件の一夜が明け、味方の哨戒機や見張所からなんの連絡もないので、全機は「即時待機」の姿勢を解いた。ほっとした空気が基地に流れた。先任士官が、空戦中に燃料がなくなった場合の操縦要領を、両手を使って説明しはじめた。  二十分もしたろうか。突然、スコールの雲間から敵機が姿をあらわし、基地に殺到し、爆撃と銃撃をあびせてきた。戦爆連合の百六十機である。味方の哨戒機は出ていたが、敵機はスコール雲の中にかくれて見えなかったのだ。 「二〇一空」からも十機が飛び立って応戦、敵の十機を撃墜したが、味方の損害は大破、炎上、目を掩《おお》わんばかりである。戦闘がおわったとき、温存に温存を重ねた戦闘機は三分の一に減っていた。    「特攻決定」へのスタート[#「「特攻決定」へのスタート」はゴシック体]  百機を擁《よう》しているとき、「二〇一空」は、毎日、セブ基地からボホール水道の海面にむけて反跳《スキツプ》爆撃の練習をしていた。海面から三メートルから五メートルの高度、というよりスキッピングの高さは投下時の高さに比例し、爆弾は敵艦の舷側にぶつける必要があるので、高度は舷側以下ということになる。海面すれすれだ。プロペラを海面で叩いて墜落するものも出た。しかし、かなり腕はあがった。  これは、実際のところ�特攻�に半歩近づいたものだった。スキップさせてからの避退がむずかしいのである。  アメリカの高射機関銃は一分間に六百発を射ち続ける。射手は引金をひいたまま固定してしまう。一分間に六百発は、一秒間に十発である。  零戦の突入速度は一時間三百ノット、つまり一秒間に百五十メートルである。ということは、アメリカの弾丸を十五メートルごとに一発うける計算になる。零戦の長さは十二メートルだ。つまり、弾丸を受ける確率は八○%になる。  しかし、これは高射機関銃を一基とした計算である。二基の場合は、零戦は確実に被弾することになる。しかもこの弾幕の中を進入して、目標の二百メートル手前でスキップさせると、零戦のスピードからいって一秒以内に避退しないと目標にぶつかってしまう。こうなると、技術よりも勘である。だが、この進入の計算をするまえに、目標の上空にグラマン、ヘルキャットが三段構えで待ち受けているのだ。これをかい潜って、�待ち受け射撃�の弾幕をくぐって、さらにスキップしてから一秒以内に反転避退、これが実際に可能であったろうか。  陸軍航空部隊の場合も同様だが、この戦法は「特攻」の一歩手前で、確実に打撃効果を拳げるという思想にもとづくものであろう。結果は、しかし、「特攻」とはほとんどかわらない。ただ一点違っているのは、搭乗員の死が一〇〇%か九九%かという問題である。つまり「特攻」はそれ以外のあらゆる手段と位相を異にした戦法なのだ。  実際には、三十機ではスキップ爆撃隊を組むこともできなかった。それよりも、奥宮正武少佐によれば、零戦で二百五十キロ爆弾を抱えてゆくことさえかなりむずかしいという。スピードをあげると桿がきかなくなるし、エンジンをしぼると狙い撃ちにされる。つまり、零戦が爆弾を抱くということは�体当り�しか考えられない姿なのだ。  十月十九日、大西中将は副官の門司大尉をよんで「これからクラーク基地にゆくぞ」と告げた。門司大尉は「なんの用かな?」と思った。大西の乗用車は、黄色い将官旗をつけて、夕映えのマニラの町を突っ切った。それが「特攻決定」のスタートになろうとは思えぬほど、静かな疾走であった。 [#改ページ]    第 四 章    「決死隊」が「特攻隊」に……[#「「決死隊」が「特攻隊」に……」はゴシック体]  マニラの司令部からクラーク飛行場までは、自動車で二時間半ばかりかかる。途中、しばしば比島人のゲリラが出没する。このため、比島方面軍司令官であった富永恭次中将は、乗用車の前後に護衛兵を満載したトラックを配して移動するのが常であった。  しかし、大西海軍中将は単独でクラーク飛行場に車を走らせた。比島の十月は、さすがに秋であった。落日は早く、丹《に》ずらう空は紫にかわり、東側は茄子紺《なすこん》に染まっている。その薄明の中で、大西中将はぽつりといった。 「これから決死隊をつくりにゆくんだよ」  副官の門司大尉は黙っていた。こういう場合、黙っているのが副官であった。が、「決死隊って、どういう姿のものだろうか」と、考えあぐねていた。大西長官のいった「決死隊」が「特攻隊」になろうとは、予想もつかなかった。そういう雰囲気が、最前線の基地である比島にも残っていた。  しかし、このとき既に大西の肚《はら》は固まっていた。というより、大西に「特攻」を選択させる戦況が展開されていたということである。  この日、大西は直接クラーク基地にゆくはずではなかった。司令部から二〇一空に対して「一三〇〇までに二〇一空司令および飛行長は出頭すべし」と命令を発していたのだ。ところが、司令の山本栄大佐と飛行長の中島正少佐はなかなか姿をあらわさない。そこで、大西中将の方から出かけることになる。それほどの切迫感が大西のほうにある。  山本と中島がクラーク基地を出たのは午後二時をまわっていた。朝から猛烈な空襲をうけ、それが一段落すると「敵部隊発見」の報が入り、攻撃機を発進させるためにてんやわんやの騒ぎが続いた。それで出発がおくれ、マニラに着いたのは午後五時ちかくである。  大西はこのときクラーク基地に近づきつつあった。つまり、両者はすれ違っていたのである。大西中将の「特攻発進」を語るうえで、この「すれ違い」はひとつの重要な材料になる。それは、彼の決意がいかに固かったかを証明することになる。  大西は山本司令と中島飛行長がマニラに到着次第、特攻編成を話すつもりであった。しかし、彼はみずから身体を運んでゆくのだ。  ダウという小さな町をすぎると、まもなくストッセンベルグという、唯一つドイツ語の名称のついた部落が左手に見える。これが見えるとすぐ、二〇一空司令部のあるマバラカットであった。比島の田舎町特有の、ごみごみした家並である。その一軒に、壁が卵色で窓枠が緑色、それにわずかなバルコニーを持つ、スペイン風の家がある。まわりを低い石垣で取り囲み、小さな庭にこんもりした繁みをもっている。かつて鐘紡が事務所につかっていたものを海軍が借りうけたという。  大西中将の乗用車はその家のまえにとまった。ひっそりとして音沙汰はなかった。やがて、指宿《いぶすき》正信大尉がゆっくりと出てきたが、将官旗をみると、あわてて近よった。 「山本司令と中島飛行長はマニラに行っております。玉井副長は飛行場です」  指宿が告げると、大西中将は「よし、すぐ乗れ」といった。  町から飛行場まではたいした距離ではない。十月十九日の落日が、最後の光を飛行場に投げていた。南国特有の、どこか甘酸っぱい匂いをふくんだ風が、ゆっくりと草原を這っている。  その風の中で、猪口力平中佐は指揮所の前に椅子を持ち出し、残存三十機の兵法を考え続けていた。    「捷一号」作戦の発動[#「「捷一号」作戦の発動」はゴシック体]  十七日の朝から、敵機動部隊は比島に殺到してきた。レイテ湾口のスルアン島が、まず、攻撃を受けた。 「敵部隊見ゆ」  同島の見張所から第一報が飛んできた。続いて「敵は巡洋艦および駆逐艦」。それからしばらく無電がと絶え、三たび、マバラカットの受信機が電波をうけた。 「敵は上陸を開始す。我は機密書類を焼き、これを攻撃、玉砕せんとす。天皇陛下万歳」  これが見張所からの最後の無電になった。  翌十八日、マバラカットは猛烈な空襲をうけた。マニラ、アパリ、ツゲガラオ、ラオアグの比島北部、それに南部のタクロバン、セブ地区もはげしい空襲をあびた。 「捷一号」作戦が発動された。日本海軍が、最後のZ旗を掲げたレイテ沖海戦の幕が切っておとされた。  猪口中佐は、マバラカットの飛行場で、この歴史的な時間を暗号電報の中から読みとっていた。同じ頃、彼の兄の猪口敏平少将は、戦艦「武蔵」の艦長として、出撃準備中であった。そのあわただしさは、やがてはじまる凄惨な海戦を予告していた。  猪口中佐の視野に、黄色い旗をちらちらとさせた自動車が入ってきた。「誰かな?」と戸惑っていると、自動車は指揮所の五十メートルばかり前でとまり、門司大尉がさっと降りると、そのあとから大西中将がのっそりと姿をあらわした。  猪口中佐と玉井浅一副長は迎えに出ながら、長官の来訪を「なんのために?」と思っている。これは率直な告白である。戦後二十数年を経て、「特攻出撃」の舞台を語ろうとするなら、大西長官の姿を見た途端に、「ある種の予感が走った」とか「きたるべきものがきた」とかいう言葉を使っても、不自然ではないし、その方がむしろ自然な感覚として受けとられよう。しかし、実際には「なんのために?」であったのだ。  大西中将は指揮所に入ると、椅子に腰をおろして、藍色《あいいろ》につつまれた基地の作業をしばらく眺めていたが、帽子をとって角刈りの頭をさっと一|撫《な》ですると、 「すこしばかり相談したいことがあるんだがね。どうだ、ちょっと宿舎まで一緒にかえらんか」  そういって、帽子をひょいとかぶった。その声にうながされて、指揮所のなかの士官たちは、いっせいに帰り仕度をはじめた。  長官のいう�相談�は、二〇一空本部の二階の一部屋でおこなわれた。大西、猪口、玉井、指宿、それに横山飛行隊長。また、第二六航空戦隊から吉岡忠一参謀が呼ばれて馳せ参じた。これは、あとでわかるのだが、「特攻」を出した場合、戦果確認機を同行させるためである。 「戦局はみなも承知のとおりで、もし、こんどの『捷一号作戦』に失敗すれば、それこそ由々しい大事を招くことになる」と大西は切り出した。その「捷一号作戦」の要《かなめ》は、とにかく栗田艦隊をレイテ湾に突入させ、敵の艦船を徹底的に叩くことにある。それには敵空母の甲板を潰して、航空機の発着を不可能にする必要がある。 「すくなくとも一週間だな。一週間、空母の甲板が使えなければ、よいわけだ。そのためには零戦に二五〇キロの爆弾を抱かせて体当りをやるほかに、確実な攻撃法はないと思うが……」  大西は、きわめて明快に論理を展開して、「零戦に二五〇キロの爆弾を抱かせて体当り」に到達した。それから、彼はいった。 「どんなものだろうか……」    �必死隊�という攻撃法[#「�必死隊�という攻撃法」はゴシック体]  たしかに、それは�相談�であった。しかし、戦闘機わずか三十機の一航艦に、「体当り」以外、どんな途があるのだろう。問題をはっきりさせるためにいえば、敵空母の甲板を潰すためには、一航艦は任務遂行能力はゼロといった方が早い。  ほかに航空兵力はないのか。ある。福留繁中将の率いる「第二航空艦隊」が、二百五十機を抱えている。戦爆連合の大編隊を組む練習をつみ重ねている。これが台湾からマニラにくることになっている。  この航空戦力に期待することはできなかったろうか。そこはなんともいえない。ただ、福留中将は、台湾で大西とあった段階では、「体当り」には反対だった。戦爆連合の大編隊攻撃でゆけると主張した。それに—— 「特別攻撃法を採用した場合、搭乗員の士気は下るであろう」  大西とはまったく逆のことをいった。大西は「搭乗員の士気は確信をもって保証する」というのだ。  ここに「山本元帥亡き後の、海軍航空隊の第一人者」といわれた大西の悲劇がある。  論理的にいえば、福留の方が正しい。「搭乗員の士気」が「上る」か「下る」かで採決をとれば、おそらく「下る」の方が多いであろう。  私の手許に『太洋』という雑誌の昭和二十年三月号がある。連日のように、特別攻撃隊が発進している最中《さなか》の発行である。この雑誌の六頁から二十一頁にかけて「陸上攻撃隊・実戦座談会」がのっている。場所は「○○海軍航空基地にて」となっており、参加者は永石海軍大佐、巌谷少佐ら歴戦のパイロット十人、司会を作家の倉光俊夫がつとめている。  彼らは、飛行機のすくないこと、故障機の多いことを痛憤し、「特攻」に対しても冷静な眼を持ち続けている。巌谷少佐がこう発言する。 「従来の海軍の戦争は、日露戦争でもなんでも、決死隊というものはあった。飛行機でもなんでも常に決死隊なんだが、必死隊という攻撃法が出たのは、今度が初めてですから。今まではそういう御命令が戴けなかった攻撃です。海軍がそれを敢《あ》えてやったことから考えても、今の戦争がどれだけひどいかということが見当つくと思うのです。しかし、これはやはりアウト・オブ・ルールで、これを以て航空作戦の妙諦《みようてい》と考えることは——これから将来の航空戦の恰好はどうなるか分らんけれども、これが常道だというように考えたら間違いで、本当はやはりできるだけうまく攻撃をやって、戦果を挙げて来る。その一つの飛行機なら飛行機が何回でも押しかけるということで行かなければならない。それが出来る状態が上の戦争なんです。今の思想で考えると、ちょっとおかしいけれども、そうやって行かなきゃ航空の発達は得られんだろうと思います。みんなどんどん死んで行ったら発達はないですからね。人的に考えても、そういう気がするんです」  この思考順序が、昭和二十年の三月という時点で海軍士官の間に生きており、しかも公刊されることを覚悟のうえで、言葉になっていることは注目すべきであろう。  このような発言からすれば、大西中将は�暴将�の名を冠せられることになろう。しかも、大西という「海軍航空隊の第一人者」は、この論理を実行し続けてきたといえるのだ。    論理ではない「体当り」[#「論理ではない「体当り」」はゴシック体]  開戦当初、海軍の攻撃機が比島に不時着、搭乗員六人が捕虜になり、戦死として公表された。それが生存となれば、当時の風潮からいえば「自決」が原則である。だが、大西は「そんな阿呆なこといってはいかん」と彼らを戦線に復帰させた。  ——パイロット一人をつくるには、時間と金がかかる。なんぼ飛行機つくったかて、パイロットがおらんけりゃ、戦争はでけん。艦と運命をともにする、機とともに死ぬ、を実行したら海軍の損失や。  大西は第十一航空艦隊の参謀長として発言している。ただ、彼は六人のパイロットから「捕虜」の名を消して、戦線に復帰させたわけではない。  参謀長の任務を酒巻宗孝少将がひきついだとき、大西はその「引継事項」の中に「六名には気の毒なるも、最前線の任務にあてられたし」と申しおくっている。酒巻はそのとおりにした。  後日|譚《たん》であるが、六人のパイロットはラバウルに送られ、事あるごとに空に舞いあがり、ついにポート・モレスビーの上空で全員が散華したという。こういうことを書くのは痛恨の極みである。  しかし、大西が開戦当初から�戦力�という観点を守り続けてきたことは納得できる。その彼が、レイテ沖海戦をまえにして「特攻の方が士気を高める」と判断したのは、彼の身体の中で、実戦パイロットの経験と司令長官の判断とが奇妙な結合をとげていたからであろうと思う。    福留中将は特攻反対[#「福留中将は特攻反対」はゴシック体]  彼の前任者である寺岡中将も、二航艦二百五十機を擁する福留中将も、パイロットの経験はない。ともに「大艦巨砲」時代の海軍将官である。ひとり大西のみが、大正のはじめから、あるいはファルマン水上機のテストパイロットであり、あるいは中島飛行機からおくり出される海軍機の最初の搭乗者であった。大尉から少佐にかけて、彼は水上機を操縦しては島陰にかくれ、そこでスタント(特殊飛行)などをひそかにテストし続けてきたのだ。  この実戦歴は、論理の整合性が精密であればあるほど、そこに危惧《きぐ》を感じさせるであろう。これは「特攻」の場面に限ったことではない。  一航艦の司令長官として、小田原参謀長や花本参謀と作戦指導をはじめると、大西は一見うまそうな計画が出るたびに「そうかいな」と考え、それから「そんなことしたら、こっちの零戦はバタバタ落されますよ」と、両参謀の意見を手玉にとるようないい方をしたものだ。  だから、福留中将が「二航艦の編隊攻撃は期待できるものと思う」と主張して、これを「特攻反対」の論拠にしたとき、大西は「いまの練度では期待できるものか」と反対している。  この思いは、自分の率いる一航艦についても、同じである。しかし、彼は�飛行長�ではなく�司令長官�である。敵の機動部隊は眼前にある。帝国海軍最後の連合艦隊は殺到しつつある。Z旗はあがった。艦艇の隻数からすれば、レイテ沖海戦に関するかぎり、彼我ほぼ同数である。艦隊決戦なら、勝算はないでもない。問題は航空兵力——。 「どうだろうか——」  大西の言葉のあと、一座には、粛然《しゆくぜん》とした空気が流れた。あきらかに、もはや、論理ではない。近代戦はシステム戦争である。そのサブ・システムの中に「体当り」という、死を客観の中に凍結させた観念、手法、行動が組みこまれている。そういう組みこみ方をすることによって、はじめて作戦が成立する、としかいえない。  まさに「敗けることを知らなかった帝国海軍」の悲劇である。 「一体、飛行機に二百五十キロの爆弾を抱かせて体当り攻撃をした場合、どのくらいの効果があるだろう?」  玉井副長が、隣りにいる二六航戦の吉岡参謀にたずねる。吉岡が答える。 「そりゃ高い高度から落した速力のはやい爆弾に比較すれば、効果は薄いでしょうがね。しかし、空母の甲板を破壊して、一時その使用を停止させることはできると思います」  それくらいのことは玉井中佐にもわかっている。ただ、大西中将の言葉のあとの沈黙を破ろうとしたのだ。玉井は大西の方をむいた。 「私は副長ですから、勝手に全体のことを決めることはできません」  大西がうなずく。 「司令である山本大佐の意向を聞く必要があると思います」  猪口中佐によると、玉井はこのときすでに「よし、これだ!」と決意していたという。ただ、事が事だけに、指揮系統を一応は立てようとしたわけだ。    「三十分だけ余裕を……」[#「「三十分だけ余裕を……」」はゴシック体]  このあとの光景を、猪口中佐はつぎのように書いている。玉井が「山本大佐の意向を聞く必要があると思います」といったあと——「大西長官は、それに覆いかぶせるように�実は山本司令とはマニラで打合わせ済みである。副長の意見は直ちに司令の意見と考えてもらってさしつかえないから、万事副長の処置にまかす、ということであった�と言った」  この光景の中で、玉井中佐は「否か応か」の決定を委《ゆだ》ねられる。彼は沈黙した。これから選択することは「決死隊」ではなく「必死隊」である。一座の視線が玉井に集まった、と伝えられているが、それは当然であろう。  玉井が、ようやく顔をあげていった。 「長官、三十分だけ余裕をいただけませんか」 「いいだろう」 「失礼します」と、玉井は指宿大尉と横山大尉を促して部屋の外に出た。暗い廊下を通って、私室へ二人を招き入れた。 「閣下は既に決意されているようだ。時は重大であるから、やむをえないと思うが……」  玉井の言葉を指宿大尉が途中から奪った。 「わざわざ私に聞いていただかなくても、副長、私に異存はありません」  玉井は、うなずくと、私室を出て大西長官たちのいる部屋に戻った。この間、大西たちは、黙ってすわっていた。  玉井は二〇一空が特別攻撃法を実施することを告げると、すぐ、 「重大なことですから、部隊の編成は私の手でやらせて下さい」  とたのんだ。大西は「う!」とうなずいたが、沈痛の色が顔を掃いたと、猪口中佐は記憶している。  風のない、暗い夜だった。爆音もなかった。湿った空気の中を、一行は階下へ降りていった。夕食の用意がととのえられた。カレーライスである。皆、黙々と食べた。  午後八時、大西中将は「おれはすこし寝る。みんなも休め」と二階へ上ってゆき、マニラに出向いた山本司令の部屋に入った。  あとは、玉井中佐が「体当り攻撃隊」の編成をするばかりである。 「第一次神風特別攻撃隊」が編成されるまでのプロセスを、できるだけ忠実に再現してみると、以上のようになる。  私には、再現してみる必要があった。なぜかというと、大西中将の言葉にすこし�食いちがい�が感ぜられるからだ。  大西中将は「零戦に二百五十キロの爆弾を抱かせる以外に方法はないと思うが……」といってから、「どうだろうか」と相談する口調になっている。  これは、大西中将の統率法の一種である。彼は、頭ごなしに「なになにすべし」といったことがない。つねに質問を発し、部下から自発的な答をひき出そうとしている。「命じられてやることはたいしたことではない」というのが、彼の口癖になってもいる。  しかし、このとき、もし玉井中佐が「体当り」以外の方法をのべたとしたら、大西中将はそれを採用したろうか。    空母の甲板を潰すのが目標[#「空母の甲板を潰すのが目標」はゴシック体]  問題はこれである。  後述するように、一航艦と三航艦が合併して「基地連合航空艦隊」をつくったとき、大西中将は再びマバラカットに搭乗員をあつめて、特攻隊の編成を命じている。しかし、この場でも「なにか、ほかに方法はないか」と聞いて、美濃部正少佐が「夜間戦闘機で攻撃をかけます」と意見をのべると、「うむ、よし」と、美濃部少佐には敢えて「特攻隊編成」を命じてはいない。ただ、この場合は二航艦の合併によって、機数も二百機近くなっている。  十月十九日夜の時点では、機数わずかに三十機。それもすべて零戦である。しかも「敵空母の甲板を潰す」という目標がある。大西中将に「失敗は許されない」という意識がある。つまり、大西中将は「どうだろうか」と相談をもちかけながら、肚は固まっていたのではないだろうか。そのように推測できる。  その推測のうえで、猪口中佐と中島少佐の手記を読むと、大西中将の発言に微妙なズレが発見できるのだ。  猪口中佐によると——玉井中佐が「私は副長ですから、勝手に隊全体のことを決めることはできません。司令である山本大佐の意向を聞く必要があると思います」というと、大西中将は「実は山本司令とはマニラで打合わせ済みである。副長の意見は直ちに司令の意見と考えてもらってさしつかえないから、万事副長の処置にまかす、ということであった」と発言している。  ところが、時間的経過を追ってみると、大西中将は「山本司令とはマニラで打合わせ済み」というが、この二人はマニラではあっていない。  冒頭で紹介したように、山本司令は中島飛行長を帯同、午後二時にマバラカットを出発し、大西中将とゆき違いになっている。しかも、彼らは、マニラで大西がクラーク基地(マバラカット)にむかったことを知ると、急遽ひきかえすべく零戦に乗った。ところが、この零戦が故障しマニラの町はずれの水田に不時着している。そして、彼らは通りかかった陸軍のトラックに助けられ、司令部にひきかえしたのだ。この事故で山本司令は左足首を骨折、中島飛行長は顔面に怪我をした。以下、中島飛行長の手記——。 「われわれは司令部の軍医官から応急手当を受けながら、ここではじめて、きょうの大西長官の要件が、体当り攻撃にあったことを聞いたのであった。司令は小田原俊彦参謀長からその話を聞くと、きょうの不時着をひじょうに残念がったが、マニラにいたのではどうしようもなく、さっそく�当隊は長官のご意見とまったく同一であるから、マバラカットに残っている副長とよくお打合わせ下さるよう�という電話連絡を取ってもらった」  この電話連絡が、大西中将と玉井中佐のやりとりの前なのか、後なのか、はっきりしていない。  時間経過から考えると、山本司令のマニラ着が午後五時。それから零戦をみつけ、出発して墜落、陸軍のトラックにひろわれて司令部に逆戻り、そこで治療を受けながら小田原参謀長の話を聞く、となると、どうしても二時間や二時間半はかかり、大西・玉井会談に間にあうか、どうかである。  しかも、山本司令からの電話がくれば、それを必ず誰かが大西中将に伝えたであろうし、その一コマはやはり「特攻編成」のプロセスに組みこまれるはずだ。ところが、それらしいものは、猪口中佐の手記に出てこない。また副官の門司親徳大尉の記憶にもない。  かりに、山本司令の電話が間にあったとしても、意味があわない。大西中将は「山本司令は玉井副長の意見と同じ」というのに、山本司令の電話は「私の意見は長官と同じですから、玉井副長の意見をきいて下さい」となっている。  つまり、山本司令の意見は�副長�と重なったり�長官�と重なったりしている。  そこで考えられるのは、大西中将が「実は山本司令とはマニラで打合わせ済みである」といったのは、玉井副長の選択をうながすためのプロットではなかったか、ということである。いずれにせよ、「特攻隊編成」に落着したかもしれない。しかし、歴史はあらゆる結果論のまえに思考を停止してしまう。「どっちみち同じこと」なら、歴史は考えないほうがいい。    海軍航空隊の伝統[#「海軍航空隊の伝統」はゴシック体]  中島少佐の手記でもわかるように、大西中将は小田原俊彦参謀長には「体当り攻撃」の採用を告げている。それからマバラカットにむけて自動車を走らせたのだ。玉井は、その大西の決意の延長線上に立っていたのではないか。  大西は玉井を小さなプロットにかけて、「特別攻撃隊」の道をひらいたといえる。  もうひとつ、こういう決定の際に見落すことのできないのは、心理的理解群の存在ではないかと思う  大西中将が水雷や砲術の出身であったなら、「零戦に二百五十キロの爆弾を抱かせる」という戦法が現地部隊にスムースに適用したかどうか、疑問である。  奥宮正武少佐もいうように、零戦に二百五十キロの爆弾を抱かせると、操縦性能はいちじるしく落ちる。スピードをあげると舵はきかなくなるし、エンジンを絞れば狙い撃ちにされるのだ。  中島正少佐は、もっと基本的に、戦闘機はもともと防禦兵器であり、これを攻撃兵器にかえるからにはそれなりの稽古が必要で、稽古なしにやるのなら人命は既に保証されない、という。  以上のようなことは、大西中将、もとより承知のことであろう。つまり、誰もが�無理�とわかっている戦法を採用している。採用しながら後悔していない。そこに心理的理解群が見られる。  これは「海軍航空隊」のひとつの伝統であろう。中島少佐は「昭和十八年ごろ、すでに�決死�と�必死�の境目の議論があった」という。  彼が横須賀航空隊で隊長をしているとき、軍令部の一部長が来て「日本の戦力を比較するに七対一、国力を比較するに二十対一なり。このまま、尋常手段の戦闘を続けては勝目なし」と説明し、「艦攻に魚雷二本を抱かせて攻撃することあたわずや」と質問した。  中島は「やりましょう」と答えた。「勝つためには、それもまた、いいでしょう」  艦攻に魚雷を二本つけるためには、燃料をそうとう積みおろさなければ不可能だ。つまり、片道燃料で攻撃に出かけるのと同様である。しかし「彼我の戦力七対一」と説明されれば、それを前提とした戦法として採用せざるをえない。  このような認識の仕方は、昭和十九年十月中旬の比島において、誰の口をかりなくても通用していた。  空中戦になれば撃墜されるのは味方機ときまっていた。青い空に垂直に煙を立てて落ちてゆく飛行機を見るのは、歴戦のパイロットにはなんとも情ないことだった。「ここまで追いつめられているんだな」という実感があった。    滅びゆく零戦の栄光[#「滅びゆく零戦の栄光」はゴシック体]  開戦当初、図上作戦でシンガポール攻略をやってみると、零戦一に対してグラマン三で計算すると、なかなか陥落しそうにない。ところが、実際に戦ってみると、零戦一に対してグラマン十ないし十五というのが�実力の差�で、まことにあっけなく制空権を手に入れてしまった。  中島少佐はバリ島で百八機の戦闘機をもっていた。台南航空隊五十四、チモール島の五十四をあわせたのである。ところが、この百八機で南太平洋を制圧できたのである。たとえばポート・モレスビーに攻撃をかけたところ、一回でカーチスP40マホークは全滅した。しばらくすると、米空軍は二十機を補給した。そこで十五機で殴りこみをかけると、だいたい一対五の戦闘になり、二回の殴りこみで米機は藻屑と消えた。あるパイロットは敵の指揮官機に追尾攻撃をかけ、そのまま追いつめて、一発の弾も射たずにジャングルの中に撃墜している。吉田一という空曹は、一機で七機にむかい、上にいる順からひとつずつ撃墜したが、最後の一機と対戦したときは弾丸がつき、思い切りそばに近寄って、風防ガラスごしに睨みつけて帰還したほどだ。  この圧倒的優勢は昭和十七年の中頃までで、山本元帥が戦死した頃(十八年春)には、一対一の互角の勝負になる。  第一は、歴戦で名パイロットの多くが戦死し、練達の教官がいなくなったこと。第二は、零戦にたよりすぎて新型戦闘機の開発がおくれたこと。第三は、アメリカはグラマンF4Fの改良型であるF6Fを出したこと。第四は、零戦は一騎討ちの性格をもっているが、F6Fは組織戦法を編み出し、彼我の空中闘技に差がついた。  昭和十九年になると、これらの差に飛行士の練度の差が加わる。飛行時間二百時間くらいで実戦に参加させられる(緒戦のころは一人平均五百時間という練度だった)。結局、零戦三ないし五にグラマン一という差になってあらわれる。  零戦の栄光が滅びつつある。それは海軍航空隊が滅びつつあることだった。それを見つめる一航艦の�飛行機乗り�は「枯れた心境になっていた」と門司大尉は回想しているが、このあたりが適切な表現であろう。  この心境のところへ大西中将が降り立った。  迎える小田原参謀長は、昭和十二年八月の�渡洋爆撃�以来の仲である。その当時、大西が司令、小田原が副長をつとめている。  大西は小田原の澄明な性格を愛していた。のちに小田原は連合艦隊付となったが、赴任の途中で、乗った飛行機が撃墜され、遺骸が新竹の海岸に打ち揚げられた。当時、「基地連合航空艦隊」は比島を引き揚げて台湾にあった。門司大尉が、連絡により新竹に赴き、小田原を荼毘《だび》に付して、遺骨を小崗山にある司令部に持ち帰った。そこで、小田原への送別会が行なわれた。大西は式の途中からボロボロと涙をこぼし、 「小田原参謀、なにして死んでくれたか。え? え? なにして死んだとか」  そんな言葉を口にした。大西には感情を抑えて端麗な|風※[#「ノ/二に縦棒を通す」]《ふうぼう》を見せるときと、一挙に感情をあふれさせるときがある。後者の大西は、男が惚れるような、爽快な涙であるという。 「菊池参謀長、小田原に送別の歌をきかせてやってくれ」  大西が後任の菊池朝三参謀長にたのむ。菊池は「暁に祈る」を歌い出した。声も節まわしもすばらしいのだが、このときだけは震えていた。「ああ堂々の輸送船」のところで嗚咽《おえつ》がこみあげてきた。    飛行機乗りの共通感情[#「飛行機乗りの共通感情」はゴシック体]  大西は、歌の中を歩いて、従兵の山本長三の脇に立った。山本が、はっとして顔を見ると、 「山本、おまえも小田原参謀長を知らんわけじゃないだろう。おわかれをしてあげなさい。長官がかわりにいただくから……」  大西はそういいながら盃を手にした。山本が酒を注ぐ。大西はそれを一気に飲みほすと、盃を山本に突き出し、 「ハイ、これは参謀長のご返盃」  そういって、手ずから山本の手にある盃に酒をあふれさせた。そのとき、菊池朝三参謀長が、朗々と吟詠をはじめた。   けふ咲きて あす散る花の 我身かな いかでその香を 清くとどめむ  大西は瞑目《めいもく》して聞いていたが、菊池の吟詠がおわると、 「誰の歌だ」  と聞いた。菊池が 「これは特攻に出た隊員の歌ですが、読みびと知らず、です」  そう告げると、「もう一度やってくれ」と大西は再び瞑目し、頭を垂れて聞き入る姿勢になった。   けふ咲きて あす散る花の……  吟詠の途中で、大西はうつむけた顔から、大きな涙をぽたっ、ぽたっと落していた。  大西はまた中島少佐とも空で一緒である。日中戦争の初期からだ。中島は九六戦の搭乗員で、大西は司令である。中島は敵が散在しているうえに、燃料ばかりくう遠距離爆撃に疑問をもっていた。 「命令が出れば別ですが、あの攻撃はつまりませんよ」  大西にいうと、彼は、 「命令が出てゆくのはアタリマエでしょ、そんなことをいうんじゃないよ」  と軽く受け流したが、作戦を変えなかった。部下には、階級や身分の差別なく、いつも主張したいことは主張させるという、あけっぴろげの上官である。  大西が写真をとられるところに中島がゆきあわせたことがある。大西はカメラマンに叫んでいる最中だった。 「私はサイド・ビューがよろしいからね。この角度から横顔をとって下さい」  飛行機乗りがどっと笑う中を、大西は大きな唇を真一文字に結んで、すまして撮影された。大西は、自分の顔が好きだったようだ。余談になるが、淑恵夫人と見合いをするとき、彼は「自己紹介状」の第一行目にこう書いている。 「眉目秀麗とはゆかずとも、目鼻立ちはハッキリ致し居り候」  そういう表現をつかう|ひょうきん《ヽヽヽヽヽ》さも持っていたわけだ。中島もそれを感じている。大西が大佐、中島が先任大尉のころである。漢口に飛行基地をもっていた。冬のことで任務はあまりない。 「おい、中島、鴨を射ちにゆこうや」  大西が大尉を誘う。二人は雪溶けの泥水の中を、どろんこになって匍匐《ほふく》前進をした。中島は、泥の中で銃をかまえ、射ち損じるとテレ臭そうに笑う大西に、人間味を感じている。  比島で大西を迎えた小田原や中島は、はじめから心理的理解群を形成したといえるであろう。飛行機乗りとしての共通感情、ともに空中戦に参加した戦友愛が、彼らの間に流れあっていたことは否めない。  比島での「特攻決定」が、門司親徳大尉が洞察した、一航艦の「枯れた心境」を背景にし、小田原や中島との共通感情にうけとめられたことを、私は否定できないように思う。  そして、大西が小田原や中島と共通感情を持ちあわせていたように、玉井中佐もまた手許に「十期飛行練習生」の三十名を持っていた。    死ぬときは海兵から[#「死ぬときは海兵から」はゴシック体]  大西が二階に上ってゆくのをきっかけに、夕食会は解散した。玉井副長には「特攻隊編成」の仕事が手渡されている。彼は、大西中将が「体当り攻撃」を口にしたときから「十期飛行練習生の搭乗員から選ぼう」と考えていたという。 「十期」が練習教程を卒《お》えて第一線部隊に配属されたのは、昭和十八年十月のことである。つまり「特攻出撃」の一年前なのだ。  彼らの最初の部隊は松山基地の「二六三航空隊」で、別名を「豹部隊」といい、隊長が玉井中佐だった。玉井は、この�雛鳥�のような搭乗員を受け取ると、それこそ手塩にかけて訓練を施した。しかし、わずか半年で、「十期」は松山基地からマリアナ方面に出動、テニアン、ヤップ、パラオの戦闘に参加する。戦死、また戦死。悪戦苦闘の果に比島南部の「二〇一空」に編成替えされたときは、生存者は三十名、同期の三分の一に減っていた。玉井は、ようやく命ながらえた教え子と、比島最後の基地で再会するのである。そして、その邂逅《かいこう》の直後にきたのが「特攻命令」であった。  玉井は、「十期」の宿舎にゆくと、二十三名の搭乗員を、ひとりひとり名をよびながら、起してあるいた。  集合は「従兵室」でおこなわれた。機密保持のためである。食堂や広場は使えない。小さな部屋が、男の臭いでいっぱいになった。小さなランプがひとつで部屋は薄暗い。それだけに、搭乗員たちの眼が光ってみえた。 「いまから話すことは、けっして口外しないように」  玉井は強く念を押してから、特攻隊編成の話をした。全員が賛成した。玉井が「明日、編成を発表する」といって従兵室を出たのは、二十日の午前零時すぎであった。  士官室には猪口参謀、吉岡参謀、指宿・横山の両大尉が持っていた。玉井が戻ってきて、 「全員賛成です」  と告げると、猪口参謀は「よし」とうなずき「指揮官には兵学校出を選ぼうじゃないか」といった。「十期」は生命を捨てることに賛成している。その「十期」を指揮するのは、やはり海兵出身であるべきだ、という考え方がある。「死ぬときは海兵から」という、矜持《きようじ》もある。 「管野がおればなあ……」  玉井がつぶやいた。管野|直《すなお》大尉は、宮城県の出身で、空戦技倆は抜群のパイロットである。かつてヤップ島上空でB24撃機とわたりあい、なかなか敵が墜ちないのに業を煮やして、体当りで尾翼をもぎとってやろうと考えた。後から攻撃すると機関砲の集中砲火をあび、前から飛びかかるには四つの発動機の邪魔になるとあって、彼はくるりくるりと反転しながら執拗に攻撃をくりかえし、とうとう自分の飛行機の右翼でB24尾翼をスッパリと切りとってしまった。B24失速して真逆様に墜《お》ちる。管野の飛行機もキリ揉み状態に入ったが、彼は失神から回復すると、右手で操縦桿をいっぱいに突込み、フットレバーを踏みつけて均衡を回復、右翼の半分ない飛行機で帰投したものである。  それくらいだから、いつも「海軍少佐管野直の遺品」と書いた箱を抱えて歩いている。自分で勝手に一階級昇進させたのが恥ずかしいらしく、その箱は滅多なことでは見せなかった。  折から、彼は内地に飛行機の受領交渉にいっている。玉井中佐が管野大尉を考えたのは、彼が空戦の神様として部下の信頼を集めていること、また「反跳《スキツプ》爆撃《・ボミング》」を編成した経験のあることが、大きな理由となっている。    関大尉に白羽の矢[#「関大尉に白羽の矢」はゴシック体] 「二〇一空」の士官搭乗員で、指揮官格にあたるものは十数人いた。管野はそのトップだが、基地にはいない。しばらくして、玉井は猪口中佐に、 「おれは関大尉を出してみたいが、どうだろ?」  と相談するようにいった。  関行男大尉は、管野と同期の海兵七十期である。猪口中佐が、海兵で教官として接している。もともと艦爆出身で戦闘機乗りではなく、ひと月くらいまえに、台湾からひょっこりマニラに転勤してきている。しかし、それからがうるさく、玉井中佐に「すみやかなる戦闘参加」を具申してやまなかった。その熱っぽい調子を玉井は思い出した。猪口中佐は「よかろう」といった。  従兵が関大尉を起しにいった。まもなく、関の足音が闇の中でした。玉井と猪口の二人だけが、彼を一階の士官室で待った。 「お呼びですか?」  関は身体の半分を灯に照らされて、玉井の傍に立った。「すわれ」と玉井は関に椅子をすすめると、静かな夜気の中で「じつはきょう、大西長官が来られて、『捷一号作戦』を成功させるための戦法を、じきじきに話された」と、語りはじめた。  関は黙って聞いている。玉井は、それから「特攻隊を編成した」ことを語り「ついてはこの攻撃隊の指揮官として貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?」といった。  猪口中佐が気づくと、玉井は話しながら、関の肩を抱くようにし、ポン、ポンと叩きつつ話している。しまいには関の顔をのぞきこむようにして、「貴様に白羽の矢」を涙ぐんでいった。  関大尉は唇を結んで何の返事もしなかった。つと両肘を机につき、オールバックの長髪を両掌で抱えて、目をつぶり、歯をくいしばった。五、六秒であろうか、彼は顔をあげ、手をわずかに動かして髪をかきあげると、 「行きます」  それだけいった。「そうか!」と玉井中佐も、それだけである。猪口中佐が「君は、まだ、チョンガだったな」ときいた。 「いえ、結婚しております」 「そうか、していたか」  結婚後一カ月である。関大尉は、その場で遺書を書きはじめた。父母と若い妻にあてて二通である。  玉井中佐は、特別攻撃隊の編成がおわり、指揮官もきまったことを大西中将に告げるべく、暗い階段をゆっくりと登っていった。 [#改ページ]    第 五 章    散れ山桜此の如くに……[#「散れ山桜此の如くに……」はゴシック体]  大西中将は、暗闇の中で、特攻隊の編成が終った旨《むね》の報告を聞いた。隊員は二十四名、隊長は兵学校出の関大尉、隊名は「神風隊《しんぷうたい》」。簡潔な報告であった。  大西は「うむ」とだけ言った。何も聞かなかった。  階下では、関大尉が遺書を書き終えた。 「父上母上様  西条の母上には、幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不幸の段御許し下さいませ。  今回帝国勝敗の岐路《きろ》に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。  鎌倉の御両親(注・妻の両親)に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき其の御恩に報《むく》ゆる事も出来ずに行く事を、御許し下さいませ。  本日、帝国のため、身を以て母艦に体当りを行ひ君恩に報ずる覚悟です。  皆様御体大切に」  もう一通、妻宛。 「満里子殿  何もしてやる事も出来ず、散り行く事はお前に対して誠に済まぬと思って居る。何もいはずとも、武人の妻の覚悟は十分出来て居る事と思ふ。御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様、色々思出をたどりながら出発前に記す。  恵美ちゃん坊主も元気でやれ 行男  教へ子へ(第四十二期飛行学生へ)  教へ子は散れ山桜此の如くに」  昭和十九年十月二十日の午前一時をまわっていた。  関大尉は玉井中佐と士官室でしばらく話し合った。当時、ひどい下痢に悩まされていた。玉井中佐が、夜が明けたらすぐに軍医に注射をしてもらえ、といった。それ以外に、どんな会話があったか、詳《つまびら》かではない。  ただ、関大尉は、ほかの練達のパイロットと同様に、個人的には�体当り攻撃�には納得していなかったようだ。出撃前のあるとき、彼は報道班員にこう語ったという。 「日本もお終いだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当りせずとも敵空母の飛行甲板に五百キロ爆弾を命中させて還る自信がある」  この意味のことを、彼が深夜の士官室で玉井中佐に語ったかどうかは、不明である。しかし、語らなくても、玉井中佐が忖度《そんたく》していたであろうと思いたい。 「特攻」の手段について、関大尉の心情と大西中将の心情とは、かならずしもイコールで結ばれていない。  関大尉は、また、同じ報道班員にこうも告げている。冗談めかした口調ではあったが……。 「僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(家内)のために行くんだ。命令とあればやむを得ない。日本が敗けたら、KAがアメ公に何をされるかわからん。僕は彼女を守るために死ぬんだ。最愛のもののために死ぬ。どうだ素晴しいだろう」  これに似た言葉は、その後の特攻隊員の手記にもしばしばあらわれる。あるものは「美しい山河のために」、またあるものは「敬愛する父母、弟妹のために」、敵艦に突入するのだと書き綴っている。「国家」とか「天皇陛下」という、倫理的存在を文字にあらわしていない場合もある。しかし、だからといって、彼らが自分の死を個人的な価値観にのみ連結させたとはいえないと思う。「最愛のKA」「美しい山河」は、小さな価値の円であろうが、それは同時に「国家」「天皇陛下」という価値の円と同心円の関係にあったろうと思われる。    最後の栄誉を守る[#「最後の栄誉を守る」はゴシック体]  このような「肉親愛」と「国家愛」との同心円的関係は、ひと口にいえば儒教思想を土壌とした�皇国教育�がつくったものといえる。しかし、関大尉のような職業軍人としての教育を受けたものが「国を守ることが最愛のKAを守ること」という発想順序を逆転させて「最愛のKAを守る」に自決の原点をおいたことは、死にのぞんだ青年の心情の最後の部屋をみる思いである。この思いで、現代のような「国家目標」と「個人的生きがい」の分離状況をながめると、われわれは索漠たる感情におちこむのではないか。皇国教育という醜怪な巨岩はアメリカ教育というブルドーザーに突き崩され、一望千里の個人原理の平野が実現したが、その平野に芽生えた人間としての愛は、いかなる生態をそなえたものであろうか。この生態を、ふたたび国家の原理で構築し直そうとする思想がある。しかし、これは関大尉をはじめ二千数百名の特攻隊員が、もっともひんしゅくするところであろう。  寺岡中将は、その陣中日記に「しかして関行男大尉が出たことを大西中将は非常に喜んでゐた。それは○○○○○○であるからである」と書いている。  私は、その端正な毛筆で綴られた日記をめくって、○○○○○○のところに、おそらく戦後書き入れられたのであろう、朱筆の「兵学校出身者」という六文字を見たとき、異様な感じを受けた。  特攻隊の指揮官に職業軍人をえらんだことに対する安堵感は、おそらく兵学校出身者でなければわからないであろう。それが海軍予備学生ではなく海兵出身者であることが、現地軍のモラールを支えうるであろうし、また、帝国海軍の最後の栄誉を守ったという心情にも通じるであろう。  しかし、考えてみれば、大西中将を頂点とする「特攻計画」の参加者たちと、関大尉の心理原点とは、交叉していないのではないか。ただ、関大尉は出動し、敵空母に突入したのであるから、計画そのものは実現したとはいえる。つまり、特攻計画者と実施者との間は心理的には二重構造になっていたのだが、それにもかかわらず、計画が実施されたのは、「出撃」という具体的な行動がリードしたからである。あえていうなら、「特攻」の思想は、思想それ自体が自己運動をとげて完結したものではなく、行動によって導き出され、肥大させられたものといえるのである。  大西中将自身は、どうであったか。  彼は、特別攻撃隊に与えた訓示を、あとで「命令」に書きかえている。かならず自分で書いた男で、稀に参謀や副官に「書いてごらんよ」と起草させることはあるが、それを使ったことはない。そのかわり私的な文書になると、ものぐさと思えるほど筆をとらない。ある参謀が「閣下、後日のために『陣中日記』をお書きになったら、いかがですか」と進言すると、大西は「そういう日記は書きたいヤツが書くものさ」と、とりあわなかったという。    体当り攻撃隊を編成す[#「体当り攻撃隊を編成す」はゴシック体]  さて、彼の「命令」を読むと、あきらかに「戦術」と「戦略」とが二段構えになって、同居している。     命 令  一、現戦局に鑑み艦上戦闘機二十六機(現有兵力)をもって体当り攻撃隊を編成す(体当り十三機)  本攻撃はこれを四隊に区分し、敵機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少くとも使用不能の程度)を期す。成果は水上部隊突入前にこれを期待す。|今後艦戦の増強を得次第編成を拡大の予定《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(傍点筆者・以下同じ)  本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す  二、二〇一空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、|なるべく十月二十五日までに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》比島東方海面の敵機動部隊を殲滅《せんめつ》すべし  司令は|今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をあらかじめ準備すべし  三、編 成   指揮官 海軍大尉 関行男  四、各隊の名称を、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす  一読してあきらかなように、「命令」の意図は「なるべく十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅する」にある。これは、栗田艦隊の「レイテ湾突入」を可能にするためだ。周知のように、この目的に沿って、小沢艦隊も沖縄を南下、わざと敵機動部隊に見つかるように電波を輻射しながら行動し、ついにアメリカ空母群を北へ吸い上げている。搭載機わずか百八機の小沢艦隊は、全軍が悲壮な最期を遂げたが、アメリカの水上部隊はまんまとわが術中に陥ちたのである。だから、小沢艦隊の行動は�艦隊特攻�といってもさしつかえない。つまり、「栗田艦隊のレイテ湾突入」が戦略目標であり、小沢艦隊の囮《おとり》作戦と一航艦の「飛行機特攻」とは、そのためのサブ・システムなのである。  もし、栗田艦隊がレイテ湾に突入したらどうなるか? かりに「大和」一隻が進攻したとしても、四十二サンチ主砲が火を吐くであろう。すると、一・五トンの砲弾が千五百発、ようやくタクロバンの南岸にしがみついたマッカーサー大将|麾下《きか》の四個師団に叩きこまれるのだ。十数万人のアメリカ兵と武器・弾薬・糧秣は、一時間かそこらで、肉片と鉄屑に化したであろう。  ちなみに、二十五日の朝、マッカーサー大将は蒼白な顔をひきつらせて、レイテ湾の入口を見つめていたのだ。傍らでは、幕僚たちが恐怖のあまり身体を震わせ、口もきけないでいる。マッカーサーは彼らを鋭い眼で見つめながら、まもなく起るにちがいない事態を想像し、血も凍る思いでいた。  午前九時二十五分、ついに重巡・羽黒と利根の二隻が湾口九千メートルの位置に姿をあらわし、艦砲射撃をはじめようとした。湾内に群がっているのは、丸腰の輸送船と補給艦のみである。波打際には、四個師団ぶんの弾薬と糧秣とが山積みになっている。  しかし、羽黒と利根は、転進してレイテ湾から去っていった。この栗田艦隊の�転進�の秘密については、多くの報告があるので、ここでは省略する。    「命ずるものも死んでいる」[#「「命ずるものも死んでいる」」はゴシック体] 「栗田艦隊のレイテ湾突入」とは「短切なる方法において、一気に戦局の挽回をはかる」策であった。このことは、大西中将もはっきりと意識している。  二十日午後三時、味方の索敵機から「目標とするに足る敵部隊、サマール島東方海面にあり」と、報告が入った。  猪口参謀は、その位置を書き入れた海図をもって、大西長官のもとに走った。 「特別攻撃隊には距離がいっぱいのところですが、攻撃をかけましょうか?」 「いや、いかん」と、大西は即座に答えている。 「この体当り攻撃は絶対のものだから、到達の確算のない場合は、おれは決して攻撃隊は出さん」  このあと、大西中将はマニラにかえると、特別攻撃隊が出撃するまでは艦隊の出動を見合わせてくれるようにとの電文を書き、これをつかんで南西方面艦隊司令部(司令長官・大河内伝七中将)にかけつけてもいる。 「そのときには、もう、遊撃部隊に�出動�の命令が出ていたんだ。二時間の差だったよ。こうなれば、今から出撃をやめてもらうのも、いたずらに混乱をますばかりだから、そのまま電文はひっこめて帰って来たよ」  後日、彼は猪口参謀に語っている。さすがに「海軍の徽章をイカリからプロペラにかえてしまえ」と主張していた�航空第一主義者�の、たいへんな自信である。  しかし、このように「特攻」を「捷一号作戦」の戦術としながらも、一方で彼は「命令」に「今後艦戦の増強を得次第(特攻の)編成を拡大」と書いてもいるのだ。 「到達の確算のない場合は、おれは決して出さん」という言葉には、大西の個人的な心情さえ窺えるのだが、「司令は今後増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし」には、現地司令官の原理が大きく据えられている。いわば「特攻を出す」の「出す」が、個人的にはミニマムの程度でとらえられているが、司令官の位置ではそれが一挙に拡大されている、といってよい。  この個人的原理の拡大は、彼が、後に軍令部次長として徹底的に「本土決戦論」を唱えるところまで、続いているように思われる。  平たくいえば「若者を死なせておいて、まだ兵力があるのに和を講じることができるか」という、思考順序である。  この考え方が大西において成り立つのは、「死」、それも「特攻」という「客観にゆだねられた死」を自分の命令で創出したからであろう。  彼は、比島から台湾にひきあげて洞窟住いをしているとき、たまさかの酒宴にも途中で盃をおくことがあった。 「長官、ご気分でも……」  幕僚がきくと、大西はげっそりと憔悴《しようすい》した顔で、 「こうして酒を飲んでいても、比島では特攻が出ていると思うとな」  と、しめった声を出した。 「しかし、決定するおれも苦しかったよ……命ずるものも死んでいるんだ」  それなら、大西中将は「捷一号作戦」の「特攻」だけで、あとは中止すべきではなかったか、という考えもできる。  事実、猪口参謀がこれを大西長官に進言してもいるのだ。  第一次特別攻撃隊のあと、ひき続いて多くの隊が編成されて、出撃を開始したときだ。 「敵はすでにレイテに上陸し、戦局も一段落したのですから、体当り攻撃は止めるべきではないでしょうか」  この質問は、参謀として当然すぎるほど当然であった。特攻機は発進するのだが、戦果はそれほど上っていないのである。  大西は、こう答えている。 「いや、そうじゃない。こんな機材や搭乗員の技倆で戦闘をやっても、敵の餌食になるばかりだ。部下をして死所を得さしめるのは、主将としての大事ですよ。これは大愛なんだ、と自分は信じているんだよ」  大西中将の�大愛�はこうもいえるだろう。戦争という構造の中で、彼は自分の手で若者を殺しているのだ、殺さざるをえないような状況に彼も巻きこまれているのだ、と。  そして、「死地」を与えられた若者は、おのがじし、自分と「死地」とを結びつける価値の糸を発見しなければならない。  あるものは「妻を守るために」、あるものは「美しき山河のために」。また、たとえば林誠大尉(千葉医大薬学専門部)や山形慶二大尉(早稲田大学法学部)は、戦後、「米国爆撃調査団」に呼び出され、ヘラー准将から「各自が特攻隊員を志願した心境はどうであったか」との質問を受けて、こう答えている。 「学徒出身者として自分らはわずか一年の軍隊教育を受けたもので、必ずしも軍人精神を体得した者とはいえない。むしろ、一般人として戦局を痛感し、本攻撃をもっとも有効な攻撃法であると信じたのである。自分らが国家に一身を捧げることによって、日本国の必勝を信じ、後輩がよりよい学問をなしうるようにと志願したものである」    隊員の背中に秋の陽[#「隊員の背中に秋の陽」はゴシック体]  若者の価値の糸はさまざまだった。これを束ねて、ひとことに「国のために」と片づけてしまうのは簡単である。簡単ではあるが、けっして、それは心理的事実ではない。大西中将さえもが、個人の原理と国家の原理の間で、心理的な明滅をくりかえしていたのである。  彼は、二十日の朝、最初の特攻隊員を前にして、訓示を行なった。  関大尉以下、二十四名が並んでいる。本居宣長の「敷島の大和心をひと問はば、朝日に匂ふ山桜花」からとった、敷島・大和・朝日・山桜の四隊が特攻隊。一隊四人ずつで十六人。これに各隊に直掩機《ちよくえんき》と戦果確認機が一機ずつ付くから、このぶんが八人。 「国を救うものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。もちろん自分のような長官でもない。諸子の如く純真にして気力に満ちた若い人々である」  秋の陽差しが、特攻隊員の背中いっぱいにあたっている。風はなく、空の奥まで真青に見える天気である。  大西中将の言葉は、ときどき、ぷつっぷつっと切れた。短勁《たんけい》という調子にもきこえるが、あえぎあえぎという感じにもとられる。体側にのばした手が、ふるえてはとまり、とまってはまたふるえ出した。 「諸子の戦果は必ず上聞に達するようにする」  訓示がおわると、大西中将は、特攻隊員の列まで歩みより、一人一人に大きな手をさしのべて、握手をした。そのたびに「しっかりたのむよ」といい、ふと、涙ぐんだ。  訣別がおわると、二〇一空司令部の部屋に入り、訓示をもとに「命令」を書き、それがすむと、海軍軍令部に打電した。このときはじめて、「本攻撃隊を神風《しんぷう》攻撃隊と命名する」と、「神風」という言葉をつかった。  午後三時、味方索敵機から報告があった。前にも述べたように、大西は「おれは出さん」と、首を振った。それから「どりゃ、もう一度、諸君にあってこよう」と、腰をあげた。  特攻隊員は、飛行場のはずれの、崖がひさしのように張り出ている空地に屯《たむ》ろしていた。一面に薄《すすき》が生い茂り、その穂波が光をふくんで、ゆれている。大西はその穂を身体でわけて、隊員たちのまえにあらわれた。 「郷里はどこやね」  彼は、関西訛りをまる出しにした。訓示の声とは打って変って、やさしい声になっている。 「お父さんはなにをしておられるのかね」 「フィリッピンのまえは何処やね」……そんなことを、若い隊員に聞いた。  そのとき、空襲があった。  グラマンが快晴の空から降ってきた。鋭く、確実な音を立てて、機銃弾が規則正しい土煙をあげた。  特攻隊員は、いっせいに、地面に匍《は》った。頭をあげるひまもなく、銃撃は、二度、三度と繰りかえされた。副官の門司大尉が長官の身を案じて、ふと、上半身をおこすと、大西中将はどっかりと胡坐《あぐら》をくんで、薄笑いをうかべてグラマンを見ている。 「長官!」  鋭く叫ぶと、大西はニヤニヤしながら門司大尉にいった。 「弾丸《たま》は、あたるときはあたるもんよ」  豪胆といえば豪胆である。これについて、こんな話がある。大西は、日支事変には爆撃機に乗っていたが、彼の搭乗機はいつも編隊の最後尾を占めていた。この位置は、敵の邀撃《ようげき》機がいちばん襲いやすく、したがって最も撃墜される可能性の高い位置である。  ところが、あるとき、源田実がこの位置について実戦に参加した。帰還後、大西が「どうだった」ときくので、源田は「いつ撃墜されるかと、恐ろしくてヒヤヒヤしていました」と答えた。すると大西は「うん、貴様はえらい。おそろしいという自意識がある。おれなんか、作戦の方に気をとられて、なんにも感じないんだ」と笑い出して、かえって源田に「胆、甕《かめ》の如し、という言葉があるが、このひとのは底抜けだ」と舌をまかせている。  グラマンの銃撃を眺めていた大西中将は、豪胆ということもあろうが、その態度に「死地を求める|ふう《ヽヽ》」があったと、門司大尉や児玉誉士夫が語っている。  児玉が、台湾に転進した大西を訪れ、二人で歩きながら話していると、空襲があった。爆撃と銃撃の両方である。児玉が避難しようとして大西を見ると、彼は機銃掃射の弾着を前にして、空をみながらゆうゆうと歩いている。このとき、児玉は「閣下、あぶないですよ」といいながら、大西の身体を抱えるようにして、防空壕に押しこんだと語っている。  従兵の山本長三によれば、マニラ司令部は連日のように空襲を受けたが、大西中将はほとんど防空壕に入らなかった、という。 「長官、鉄兜を!」  山本がさし出すと、大西は「はいよ、ありがとう」と受けとり、「山本君、あぶないから壕に入っていなさい」と強くいって、自分はどこかへ立ち去ってしまう。山本は、ある将官が壕のいちばん奥に入って、ときどき「従兵、空襲は終ったか、ちょっと覗いてみろ」と叫んでいるのを聞き、同じ将官でもこんなに違うものか、と思ったそうだ。  大西中将は、空襲のさなか、司令部の奥庭に隠匿《いんとく》してあった特攻機の点検に歩いていたのである。山本従兵が、心配のあまり、壕をぬけ出して大西中将の姿を探したところ、大西は一機一機に軽く手を触れながら、機銃掃射の中をぶらぶらしていたという。  このような話を重ねて聞くと、「特攻決定」後の大西中将は、いかにも「死地を求めて」いるように思われてくる。    水筒で水盃[#「水筒で水盃」はゴシック体]  さて、最後の特攻基地での空襲がおわると、大西長官は「そんなら、僕ら帰るよ」と、腰をあげた。ちょっと歩いたが、副官の腰の水筒に眼をとめると、「副官、水は入っているのか?」ときいた。 「入っております」 「よし、いまから水盃やろう」  一本の水筒が、大西から玉井に、玉井から関に、関から二十三名の若い唇に、ひと飲みずつ、渡ってゆき、最後に大西の手に戻った。大西は、水筒を両手にもつと、隊員の顔を見て、 「そんなら、帰るよ」  もう一度、いった。これが、最後の別れとなった。大西はマニラにいて、マバラカット基地やセブ島から発進した第一次神風特別攻撃隊の発進を見送ることがなかった。  翌二十一日午前九時。「敵機動部隊レイテ東方海面にあり」と入電。 「特別攻撃隊、出発用意」  伝令が飛ぶと、隊員たちは薄の小径《こみち》を駈けあがり、指揮所のまえに一列に並んだ。  特攻隊出撃の舞台装置としては、なにもなかった。ただ、大西長官が前の日においていった水筒から、わずか一杯の水を、それぞれが飲んだにすぎなかった。テーブルが持ち出され、それに白布が敷かれ、隊員が日本酒を|かわらけ《ヽヽヽヽ》に受けて飲み干す風景は、特攻機がマニラから発進するようになってからである。  玉井中佐は、水筒の水を注ぎながら、涙をかくさなかった。隊員たちの間を、小さな水筒の蓋がまわっている間に、誰かが「海ゆかば」を歌い出した。やがて、低く重い斉唱になった。終ると、すこし間があって、また誰かが「予科練の歌」を歌い出した。これも斉唱になった。  歌がおわる。隊員が散る。一直線に搭乗機にむかう。プロペラが回った。つぎつぎに乗りこむ。 「副長、これをお願いします」  関大尉が、ひと握りの遺髪を玉井中佐にわたした。整備兵が、搭乗機にぴたりと寄り添っている。なかなか離れようとしない。顔じゅうを涙にしながら風防ガラスのむこうの関大尉を見つめている。関が手を振って「降りろ」と指示する。  離陸。上空で集合。さすがに腕ききをえらんだだけあって、見事な編隊を組む。すぐに空の東方に一点となった。  しかし、この日は敵を発見できず、全機帰投している。二十二日、二十三日、二十四日と、特攻機は索敵機の報告をキャッチするたびに舞い上ったが、レーダーを装備していないため、敵機動部隊を発見できずに終っている。  ことに二十四日は、栗田艦隊がシブヤン海を通過する日だった。折悪しく、スコールが壁をつくり、索敵を困難にした。しかし、一航艦の飛行基地には、栗田艦隊が米艦載機に一方的に攻撃されている情況が、刻々と伝えられている。すでに「武蔵」を失い、満身|創痍《そうい》になりながら、最後の連合艦隊は死闘を続けている。  特攻を発進させて敵空母の甲板を叩く——この計画は、海戦がはじまって以来、まったく実現されていない。航続距離の短い戦闘機にとって、索敵は無理なことである。  大西中将は、マニラの司令部にあった。「特攻隊発進」の報は受けとるのだが、攻撃は未遂におわってしまう。しかし、彼にとっての空白な時間の中で、実際の海戦ははじまっている。そんなさなか、福留中将の率いる二航艦が、沖縄から台湾を経て比島にやってきた。保有機三百五十機。福留長官は「特攻」に賛成せず、「おれのところは急降下爆撃と水平爆撃でゆく」と主張した。  大西中将は「そんなこと、できるもんか」と、最初からこの海兵同期生の将官のいいぶんを問題にしていない。技倆の低下は蔽《おお》うべくもなく、だいいち戦果確認機が、味方機が撃墜されて海面にあげる焔や水柱を見て、「小型艦艇撃破」を報告する程度になっている。大西は、そういうことも知っている。  しかし、彼が二十三日、二十四日の両夜、執拗に福留中将に「特攻隊参加」をすすめたのは、「捷一号作戦」のために編成した「第一次神風特別攻撃隊」の立ちおくれによる焦燥感が手伝ってはいないだろうか。  大西の、作戦会議における発言をこまかに読むと、特攻による攻撃は必ず成果を生むものと信ずるが、「一航艦の機数はひじょうにすくない(注・残り十四機しかない)ので、二航艦の戦闘機の一部をさいてこれに加勢してもらいたい」となっている。全部参加しろ、とはいっていないのだ。  福留中将は、この申し出をはねのけ、二十四日、二十五日の両日、二百五十機による戦爆連合の大編隊を繰り出した。しかし、戦果は「巡洋艦二、駆逐艦三を撃沈」にとどまった(米軍の発表では、補助空母プリンストンが航行不能に陥ったのち僚艦により轟沈、駆逐艦ルーツおよび上陸用舟艇五五二号が水平爆撃で沈没、油送船アシュタビュラ号が雷撃により損傷となっている)。    真っ先に突入した関大尉[#「真っ先に突入した関大尉」はゴシック体]  二十五日、関大尉のひきいる「敷島隊」は、ついにタクロバンの八十五度九十|浬《マイル》の地点で、敵機動部隊を捕捉、一挙に襲いかかった。アメリカ側の記録を見ると、彼らはレーダーの死角内すれすれに海面を低く飛んできたが、空母に近づくや急上昇し、それから一気に突込んできたという。高射機関銃を射ち続けた米兵は「よけると思ったヤツがよけずに、白煙を吐きながら迫ってくる」のを見て「オー、ママァ」と大声で泣きわめいたのであった。  最初の一機が空母「キトカン・ベイ」の甲板の端に突き刺さり、火災をおこした。空母「カリニン・ベイ」は前甲板に火災をおこし、さらに後部煙突付近にもう一機が突入した。最も被害を蒙ったのは「セント・ロー」で、対空砲火のため火だるまになった特攻機が、飛行甲板のセンターラインに突入、甲板を突き破って艦内で爆発した。このため、格納甲板にあった魚雷八本と爆弾が誘爆、これがまた飛行機に積んだ爆弾を破裂させた。やがてガソリン缶もいっせいに自爆するにおよんで、艦長は黒煙にむせびながら、叫んだのだ。 「艦尾は、まだ、わが艦にくっついているか!」  これを目撃したのは、「敷島隊」の直掩機に乗っていた西沢広義飛行兵曹長である。彼は、ラバウル航空戦以来の名パイロットで、マバラカット基地に帰投すると、つぎのように報告している。 「指揮官機(関大尉)は突撃のバンク(翼を振ること)をすると、真っ先に敵空母に突入し、見事に命中した。さらに列機が、火に包まれて逃げまどう空母に突入、黒煙は千メートル上空にふき上った。その中を、一機がまた空母に突入、もう一機は軽巡洋艦に命中した」  わずか五機で、空母一を撃沈、空母二、軽巡洋艦一を撃破したことになる。西沢飛曹長の報告は、ただちにマニラの司令部に打電された。  大西長官は、電文を受け取ると、胸のポケットから眼鏡をとり出し、ゆっくりと読んだ。彼は滅多に眼鏡を使ったことがなかった。まして電文の字は大きい方である。しかし、このとき以来、特攻隊関係の電文を読むときは眼鏡をかけるのが癖になった。  読みおわると、ふとく吐息をついて、ゆったりと身体を椅子に沈めた。  マニラからの電報が東京の海軍軍令部に届いたとき、源田実中佐は電文を両手でしっかりとつかみ、奥宮正武少佐に叫んだ。 「おい、一機命中、二機命中なんだぞ。わかるか、一機、二機だぞ」  一発命中ではなく一機だ、そこに源田の感慨がこめられていた。軍艦マーチが鳴り「大本営発表」が行なわれた。しかし、実際にはこの成功をきっかけとして、特攻が日常化への道を踏み出したのである。    「反対者はおれが斬る」[#「「反対者はおれが斬る」」はゴシック体]  記録によれば、「敷島隊」が突入する二時間まえに「大和隊」も敵水上部隊に襲いかかっている。しかし、戦果は確認されていない。また、第一次神風特別攻撃隊の四隊のほかに、次の編成である「菊水隊」「若桜隊」が、敵艦船に突入を図っている。  大西は、敷島隊の成功を手にして、二十五日夜、さらに福留中将に「特攻参加」をせまる。  福留は「士気の低下せざることを保証するなら」という条件をつけて、二航艦も「特攻」に参加することを承知する。これが二十六日の午前二時である。  この段階からの大西の行動はおどろくほど早い。  すぐさま、一航艦と二航艦の統一編成を提案、「基地連合航空艦隊」と名をかえて、長官には福留中将をすえ、みずからは参謀長の位置につき、作戦参謀に二航艦の柴田大佐、特攻の指導ならびに実施を担当する参謀に猪口中佐を配している。そうする一方、彼はその日の夕刻、クラーク基地に搭乗士官の召集をかけた。  美濃部少佐の記憶では、百五十人以上、集まったという。  大西中将は、玉兵団がマニラからオルモック湾に逆上陸することになっているが、その成否は敵の魚雷艇を潰すかどうかにかかっていると説明し、「天皇陛下も敵魚雷艇をいちばん心配しておられる」とつけ加えた。それから、パイロットたちの顔を見まわすと、「どうだ、魚雷艇を潰す方法はないか」と、つよい声でいった。  美濃部少佐が顔をあげた。 「夜間に低空で侵入して叩きます。ただし、マニラからでは遠いので、セブから出ます」 「よろしい」  大西は美濃部にうなずいてみせた。それから、江草中佐の顔を見ると「ほかにないか。水爆(爆装した水偵機)はどうだ」ときいた。  江草中佐はマニラに�水爆�をもっているが、この飛行機は零戦より弱い。おそらく魚雷艇の上空はグラマンが直掩しているであろう。三段構えで、日本機が来たら挟み打ちにしようとの態勢だ。江草は、困惑した表情になる。 「江草よ、�水爆�はダメか」  大西の声に癇《かん》が走った。こうなると、あぶない。美濃部少佐が江草の脇腹をついて「いまは、�水爆�も�ゆきます�といっておきなさい」と促した。江草の顔があがる。 「セブからゆきます」  大西は「ほかにないか」と、見まわした。誰も、なにもいわなかった。ほとんどが二航艦のパイロットである。鹿屋《かのや》から沖縄へ、沖縄から台湾を経て、比島に来ている。無傷無戦のものが多い。 「よおし」と、大西は強い声を出した。 「全部隊を特別攻撃隊に指定する。これに反対するものは、おれが叩っ斬る。これ以上、批評はゆるさん。おわり」  副官の門司大尉が、びっくりして、大西長官の顔を見た。二航艦のパイロットの間に、あきらかに動揺の色が流れた。「戦局はそこまで来ているのか」という衝撃もあったろうし、「ほかに方法があろうに」という不満もあった。大西がこのような�非常のこと�を口にしたのは、現地で苦しみぬいた一航艦と無傷の二航艦の間にある違和感を、一挙に埋めるためではないか。門司大尉はそのように解釈した。  翌二十七日、二航艦の搭乗員による「特別攻撃隊」が早くも編成された。木田達彦司令がひきいる「七〇一空」の中で、純忠・誠忠・忠勇・義烈の四隊がうまれたのである。そして、彼らはその日の午後、マニラのニコラス基地を発進、レイテ湾内の敵艦船にむかって、突入していった。  この「第二次神風特攻隊」の使用機は、零戦が一機、「九九式艦爆」が九機、「彗星」(艦爆)が六機である。  戦果は、戦艦一隻中破、巡洋艦一隻大破、輸送船二隻を大破、同一隻を小破、となっている。  このあと、特別攻撃隊は陸続とフィリッピンから発進した。いや、戦闘にむかう飛行機は、ほとんど特攻隊であったといってよい。  ほどなく、ニコラス飛行場が敵の爆撃で使えなくなり、司令部の面した、マニラ湾沿いの道路が滑走路になった。マニラ湾の夕映えは世界の三大美景のひとつに数えられている。空も海も朱色に燃えるとき、特攻機は道路を真っすぐに滑走して、赤い雲の中の一点となった。  地上では、整備員がいつまでも帽子を振った。大西は、出撃と聞くと、かならず司令部を出て見送っている。しかし、訓示を与え、隊員と握手し、別盃の酒を飲むのは、彼ではなく、福留中将である。 「よろしくたのむ」  そういって福留は隊員の手を握った。大西は寡黙《かもく》になっていった。ひたすらに、特攻隊員のことを思うふうであった。  軍医長が、大西の憔悴ぶりを気にして、副官に「すこし身体に栄養をつけさせないと、いかんな」といった。副官から「なんとかならんか」といわれて、山本従兵は内地から視察にくる幕僚が煙草をおいていったのを思い出し、これを現地人との間に卵と交換した。  ある朝、山本は幕僚たちの食卓に卵をつけた。某将官が、殻を割って中身をおとし、黄味に血が混じっているのを見て、「従兵、貴様はこんなものを食わせるのか」と、怒鳴った。  大西は、自分の従兵が怒鳴られている間、じっとうつむいていた。一同が食事をはじめると、大西は「従兵」と小さな声で呼んだ。山本が近寄ると、彼はまた小声で、 「この卵は、特攻に出る隊員にもついているか?」  と聞いた。山本が、 「なにぶん、補給がありませんので」  と答えると、大西は、そっと卵を手で押しやり、 「これをやってくれ」  といった。大西は、リンゴが配給になればなったで、「ほう、珍しいな」といってから「特攻隊員にも出ているか」と、かならず訊ねている。彼らには渡っていないときくと、「やってくれ」と手でおしのけ、ひと口も食べたことがなかった。山本は、いまもこの話をしながら、滂沱《ぼうだ》たる涙をとどめえない。  大西の「日常化した特攻」に対する苦悩の原点には、彼のいう�大愛�があるだろう。「グラマンの餌食になるよりは�死場所�を与える」という思想だ。しかし、この「死場所論」は、戦局に対する見解を媒介《ばいかい》として、はじめて「思想」として成立するものである。  当時からいぶかられていたのだが、第二次神風特攻隊以後の攻撃目標は「敵機動部隊もしくは艦船」におかれている。しかし、これは攻撃効果からいうと疑問である。  当時、マッカーサー大将の麾下四個師団はレイテ島を次第に制圧していたとはいえ、同島の日本陸軍の抵抗も熾烈《しれつ》であった。ために、レイテ湾内いっぱいに、武器・食糧を満載した輸送船が浮んでいた。  つまり、もし「特攻機」の目標が湾内の「船団攻撃」にむけられていたら、上陸軍は背後を襲われることになり、心理的にもかなり打撃を受けるはずである。  幕僚の中にも「船団攻撃にしたらいかがですか」と進言するものがあったが、大西は「いや、艦船だ」と断定した。  大局的にみれば、敵艦船を叩けば南方資源の輸送が確保されようという考えがある。さらに、フィリッピンのつぎは沖縄が目標になるであろうが、この沖縄進出をすこしでも引き伸ばし、米軍に�出血�の大きさを知らせようという意図もあろう。    西郷と東郷に私淑して[#「西郷と東郷に私淑して」はゴシック体]  これらをひっくるめてみると、大西の「ドロンゲーム論」に集約されてくる。  東京日日新聞の戸川幸夫記者が、台湾に引き揚げてきた時点で大西にあい、「東京の海軍報道部では、敵は遠征のために補給線も伸びきっており、今こそその弱腰を叩く絶好のチャンスだ、といっていますが」と質問すると、大西は洞窟の中で、「馬鹿な!」と、ひとこと吐き出すようにいった。幕僚たちも沈黙した。それから戸川の「特攻によって日本はアメリカに勝てるのですか?」という質問に対して、大西は「勝たないまでも負けないということだ」と答えるのである。 「いくら物量のあるアメリカでも日本国民を根絶してしまうことはできない。勝敗は最後にある。九十九回敗れても、最後に一勝すれば、それが勝ちだ。攻めあぐめばアメリカもここらで日本と和平しようと考えてくる。戦争はドロンゲームとなる。これに持ちこめばとりも直さず日本の勝ち、勝利とはいえないまでも負けにはならない。国民全部が特攻精神を発揮すれば、たとえ負けたとしても、日本は亡びない、そういうことだよ」  こうなると、特別攻撃隊は国民の緊張感の�もと火�であり、絶えず火を吐き煙をあげながら、続行されねばならなくなる。  大西の特攻の思想の根底にあるものは、「国民」ではなくて、「国体」である。いや、「国家の廉恥」というべきであろう。ただ、彼は「国家の廉恥」という抽象的概念に、その精神の焦点をあわせながら、死んでゆく若者への情念を昇華しきれずにいる。人間的苦悩と国家的原理との分裂が、彼の身体の中ではじまったのは、あきらかである。  大西の生家は、日本のどこにでも見受けられる、地主兼自作の農家である。家系に傑出した人物が出たわけでもなく、彼が海軍兵学校を希望したのは、西郷南洲と東郷元帥に私淑したからであった。しかし、それは心情であって、思想的原点ではない。それよりも、彼自身の性格が帝国海軍の中で稠密化《ちゆうみつか》されたと思われる。 [#改ページ]    第 六 章    大西郷を科学したような男[#「大西郷を科学したような男」はゴシック体]  戦時中、橋田文相が「科学する心」という言葉を使ってから、この妙な日本語が各界で流行したが、海軍の若い将校たちも大西瀧治郎に対して「大西郷を科学したような男」という讃辞を呈している。  この「大西郷を科学したような男」という評言は、言葉としては妙であるが、大西の「特攻」に至る思想を、きわめて悲劇的にいいあてていると思う。  大西の思想の中心にあるのは国家である。職業軍人が一般に持っているものではなくて、彼の場合は国家の経営とか方策というように、国家は倫理的な存在ではなく、生涯を費消すべき対象なのだ。つまり、彼が「特攻」を出撃させたのは、�悠久の大義�や�護国の鬼�という抽象的概念をバネとしているのではなく、それこそ国家の経営に必要と認めてのことである。私は、そのように推論したい。いかに大西が海軍将校の信望を集めていたとはいえ、�悠久の大義�や�護国の鬼�という空念仏では、彼自身が血涙を絞ってまで「特攻」に踏み切れなかったであろう。だからこそ、「特攻」における個人の原理と国家の原理は決定的に対立するのである。  二つの例を挙げる。  米内光政が首相になったとき、大西は「南洲翁遺訓」の一節を軸にして贈呈している。当時、彼は海軍大佐である。分にすぎた行為であるが、これは米内に対する形をかえた上申書と見るべきであろう。米内は平沼内閣に海相として入閣したが、日独伊三国同盟に反対して不成立に終らしめている。が、この政治課題は彼が総理大臣となっても、なおくすぶり続けていたのだ。その煙の中へ、大西大佐は一書を投じたと見るべきである。南洲翁遺訓はすこし長いので、大西が引用した一部を紹介すると、 「西郷南洲翁征韓論口述。太政大臣な、篤と聞いて置いて下され。今の太政大臣でなく王政復古明治維新の太政大臣でごわす。日本を昔から小日本で置くも、大神宮の御詔勅の通り、大小広狭の各国を引き寄せて天孫のうしはき給う所とするも、皆おはんの双肩にかかっており申すでごわす。日本もこの儘では、何時までも島国の形体を脱することは出来申さぬ。今や好機会、好都合でごわすので、欧羅巴《ヨーロツパ》の六倍もある、亜細亜《アジア》大陸に足を踏み入れて置かんと、後日大なる憂慮に遇《あ》いますぞ……」  こういう書き出しで、西郷が朝鮮を外垣とし、ロシアに対する策源地たらしめよと主張したクダリを書き連ねている。この一文は、つぎの山本五十六中将あての文書と同じく「大西瀧治郎伝」に紹介されているが、この本の著者は、大西は「三国同盟論者ではなかったようだから、同盟締結の促進を慫慂《しようよう》した意味では無論なかったであろう」と説明している。  もう一通、大西はロンドン軍縮会議に赴《おもむ》く山本五十六宛に「南洲翁遺訓」を贈っている。  一、正道を踏み、国を以て斃《たお》るるの精神無くば、外国交際は全かる可《べ》からず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順従する時は軽侮を招き、好親|却《かえつ》て破れ、終に彼の制を受くるにいたらん。  一、国の凌辱せらるるに当りては、縦令《たとい》国を以て斃るるとも、正道を践《ふ》み、義を尽すは政府の本務也。然るに平日|金穀《きんこく》理財の事を議するを聞けば、如何なる英雄豪傑かと見ゆれども、血の出る事に臨めば、頭を一処に集め、唯目前の苟安《こうあん》を謀るのみ。戦の一字を恐れ、政府の本務を墜しなば、商法支配所と申すものにて、更に政府に非ざる也。    特攻以外の方法があれば[#「特攻以外の方法があれば」はゴシック体]  このとき大西は海軍中佐になりたてである。いかに山本五十六中将に可愛がられていたとはいえ、この贈呈もいささか礼を欠いたものであろう。ここで大西は西郷南洲の遺訓を藉《か》りて、彼の国家観を訴えたと見た方がよさそうだ。  戦後の大西評には�猛将�あるいは�暴将�の言葉がある。「特攻の創始者」として、超国家主義の理念にとらわれた、気違いじみた軍人という片付け方もある。  しかし、われわれは大西を�暴将�もしくは�気違いじみた軍人�という評価に押しこめてしまえば、「特攻の思想」を語る必要はないのである。特攻は�狂気の沙汰�ということになり、その思想的構造を語るべき対象にはなりえない。だが、そういう片付け方は、果して日本人の思想を問ううえで安全であろうか。  大西中将は、むしろ�論理の将校�であると思う。山本五十六と米内光政に贈った「西郷南洲翁遺訓」の一説は、それぞれ軍事と政治の接点に�国家経営�を光彩陸離として語っている部分である。大西は、まさにこの部分のみを引用しているのだ。  特攻発進後の比島航空部隊は、消耗につぐ消耗で、見る影もなくなっている。十一月中旬、セブ基地にいた美濃部正少佐は大西中将に呼ばれて、単機、クラーク基地に急行した。 「パラオ島の傍にコッソル水道があるが、米空軍はここに大型飛行艇の基地を設営し、きわめて有力な偵察部隊となっている。常時、四十八機だ。これがわが方の補給艦船の動静を探り、潜水艦に通報しておるんや」  大西は、地図を指さしながら、状況を説明し、顔をあげて美濃部を見すえた。 「どうや、こいつをやっつける方法はないか」  彼に独特のいいまわしになった。  美濃部が答える。 「そりゃ、簡単ですよ」 「うむ、どうしてやるか」 「零戦が四機あります。セブからコッソルまで六百マイル、最大距離ですが、一気に攻撃をかけて焼き払います」 「いや、零戦は使うな。あれはレイテ島に使う飛行機だ。月光でやれ」 「長官、月光は使えません。あれは斜め銃ですから、二十メートルの間隙にしか射てません。零戦は固定照準ですから一箇所に、四、五発射てます」 「うん。それなら月光を特攻に使うか」  ここで美濃部少佐は、特攻決定以来、彼の胸にわだかまっていたものを、一気に吐き出してみた。 「長官、お言葉でありますが、特攻さえ出せばいいという考え方はどうかと思います。特攻以外の方法で、長官のご趣旨に副《そ》うことができれば、その方法の方がすぐれているわけです。私は、それに全力を挙げるべきだと考えます」  大西は、優しい顔をして聞いている。つい先頃、各隊の司令(中佐、少佐)をあつめて「全軍特攻」をいいわたし、「これに反対するものは俺が叩っ斬る」と、強い声を出した将官とは思えない。 「うん、それで?」  大西が促した。 「だいいち、特攻は、ありゃ軍隊の指揮というものではありません。指揮官の位置がなくなってしまいます。私は、自分の方法をもっていますから、兵の使い方について長官のご指示はうけません」  美濃部がいいたいことをいいおわると、大西は大きな眼を動かしてうなずいた。 「そうか。それだけの抱負と気概をもった指揮官であったか。よし、君のところの特攻は中止する。私としても、この攻撃方法(特攻)は信念としてとっているのだ。ただ、コッソル水道には零戦を使うな。そのかわり、魚雷艇攻撃と基地攻撃をたのむ」  そういってから大西は「どうだ、コッソル水道の攻撃には生還を期しうるか」と、たずねた。 「そりゃ行ってみないことにはわかりませんが、ま、ペリリュー島かパラオ島に不時着すればいいでしょう」 「うん、そうか。よろしく頼むよ」  美濃部の率いる攻撃隊は飛行艇焼き打ちに成功した。夜間、基地上空に侵入、八千メートルの高度から照明弾をおとす。あわただしい反撃がくる。それを待ってわが方はさっと引きかえす。これをやられると基地の方は仕事ができない。払暁《ふつぎよう》、美濃部少佐を隊長機とする零戦四機は、椰子の葉に翼を擦《す》らしながら、海面ひくく進入する。エンジンを絞り、音を殺しての低速だ。  レーダーには、三十度以下と六十度以上に死角があった。その死角を零戦は進んだ。海面に飛行艇が浮んでいる。ようやく薔薇色に染まりかけている。その美しい標的にむかって二十ミリと七・七ミリ機銃が火を噴く。飛行艇が朱色の炎をあげる。一機、また一機。海面に炎が映る。だが、敵機は迎撃してこない。夜間の照明弾投下で攪乱され、迎撃の準備ができていないのだ。  美濃部の隊は�幻の零戦�と呼ばれた。列機は、美濃部少佐を除いて、三人とも上等飛行兵曹である。ラバウル以来の練達の士だ。それだからこの攻撃は可能であった。美濃部によれば、当時レイテ基地に攻撃をかけた零戦は、ほとんど生還できなかったという。  このエピソードは、美濃部の�武勇談�よりも、当時のパイロットの練度を語ってあまりある。  いわゆる�幻の零戦�のパイロットたちは、海面すれすれの低空飛行をしながら、なお機首を右と左に三十度ずつ、交互に振りながら飛行する腕前だった。  十二月一日、美濃部少佐に再び大西から呼び出しがかかった。 「これから内地に還って、君の思想による新しい隊を編成してきたまえ」  大西は命令した。  美濃部は、この際、ラバウル以来の上飛曹三名も連れてゆきたいとたのんだ。が、これは聞き容《い》れられなかった。 「零戦はレイテに使うんだ」  大西は断乎としていった。    論理の海将の悲哀[#「論理の海将の悲哀」はゴシック体]  美濃部は、その大西に指揮官の悲哀を見ている。指揮官は孤独である。よきアシスタントとプログラムがあって、はじめて�持ち味�を発揮できる。 「だが、比島の大西さんにそれがあったろうか」と美濃部はいう。彼は、ダバオ事件(九月十日)の混乱を身を以て体験している。  当時、風速七メートル。海上に白波が立った。見張員がそれを戦車の上陸と見まちがえる。 「敵襲!」と叫ぶ。するともう、一航艦は司令部まで右往左往の大混乱であった。泣き叫ぶフィリッピンの避難民にまじって、海軍根拠地部隊が荷物を担いで遁走《とんそう》を開始したのだ。その奔流に逆いながら美濃部は司令部に到達する。  軍刀を吊るもの、ピストルを装填《そうてん》するもの、脚ごしらえをするもの……。 「なにをしているんだ?」 「これから陸戦だ。その用意をしろ!」  司令部の片隅で暗号の処理がはじまった。最高機密の暗号表は、いったん処分してしまうと、再交付されるまで時日を要する。美濃部は「それだけは確保しろ」と叫んだが無駄だった。飛行機に搭載する通信機の発信装置(水晶片)も、片っ端から粉微塵にされている。彼はたまりかねて、 「偵察機は出ているのか?」  と叫んだ。誰も答えなかった。 「飛行機はあるのか?」 「ある。ニコラス飛行場にある。しかし搭乗員はセブなんだ」  参謀が答えた。美濃部は飛行場にすっ飛んでゆき、ただ一機放置されていた偵察機に飛び乗って舞い上った。上陸地点とされたところを何度も通過してみたが、群青の海面は白波ばかりで、ひっそりとしている。彼は司令部に戻ると「いったい、なにが来たというのだ。なにも見えやしないじゃないか」と、怒りを叩きつけた。  彼は、これまでの経験から、アメリカ軍が上陸してくるときは、まず戦爆連合の大空襲をかけ、つぎに熾烈な艦砲射撃を浴びせ、それから上陸用舟艇を繰り出すという方程式を知っていた。  ダバオ事件がおきたとき、美濃部は電話口で「空襲も艦砲射撃もないじゃないか」といった。すると司令部は「なにをいっているんだ。ほんとうにくるんだ、命令どおりにやれ!」と叫んで、電話を切った。  美濃部は受話器を握ったまま「こんなことでいいんだろうか」と思い続けた。  美濃部の眼には、大西司令長官の身辺に孤独な風が吹いているように映った。大西が「もう俺は年配者には期待していないよ。若いひとに期待しているんだ」と呟くのを、彼は苦い思いで聞いている。大西の「終りを全うする最高の戦略はいかん。若き青年の純心にまつのみ」という言葉にも、心に頷《うなず》くものを感じている。  しかし、大西中将は美濃部少佐が独自のプログラムを開陳したとき、その場で「特攻」をひっこめ、さらに「君の思想で攻撃隊を編成せよ」と命じているのだ。つまり、大西中将は「特攻」を発進させたあと、みずからも�暴将�あるいは�狂将�に変身したのではなく、�論理の海将’の中心軸を崩していない。    漆黒の闇を凝視する[#「漆黒の闇を凝視する」はゴシック体]  このことは、美濃部の後日譚と比較すると、いっそう明白になる。  彼は内地にかえると、零戦二十機、彗星百十機をかき集めて訓練をはじめた。静岡県藤枝市の「戦闘九〇四」「八一二」「八〇四」の三隊がそれである。  この訓練はかわっていて、空中格闘などに重点をおかない。日が暮れると、飛行場の中に搭乗員をすわらせ、夜目をつくる訓練をするのである。あるときは深夜に全員を叩きおこして、漆黒の闇を凝視させることもやる。一週間もすると、夜目がきくようになる。そこではじめて飛行機に乗せ、夜間航法を練習させ、低空飛行、銃撃、反転退避と移ってゆくのだ。  美濃部は暗い飛行場の中で、時折、隊員を叱咤していった。 「貴様ら、これができないと特攻に入れるぞ」  二カ月の訓練のすえ、海軍航空隊の編成表にも機種による作戦表にも載っていない、特殊な部隊ができあがった。したがって部隊名のつけようがない。美濃部はこの部隊をひきいて沖縄に移駐したとき、寺岡謹平中将にたのんで「芙蓉部隊」と名乗らせてもらうことにした。  三月のはじめ、木更津で連合艦隊の「沖縄作戦会議」がひらかれた。各航空部隊から司令級(大佐、中佐)ばかり三百名があつまった。  幕僚長から、航空燃料はもはや底をつき、一機あたり一カ月に十五時間ぶんしかないと説明があった。それも松根油である。帝国海軍が血の滲む努力をして獲得した�オクタン価九二�は望みえない。せいぜい八八である。これは、グラマンに遭遇した場合、鷲と鳩の戦いになる。 「そこで、赤トンボ(翼が布製の初級練習機)四千機をふくめ、全航空兵力を特攻とする」  幕僚長が計画をのべた。美濃部少佐が立って、反対を叫んだ。 「実用機ならとにかく、赤トンボまで特攻に出すのはナンセンスです。それに、航空燃料が足りないといわれるが、攻撃方法によっては一機一カ月十五時間はかならずしも不足ではない」  幕僚長が眼を剥いた。 「貴様、第一線の搭乗員がなにをいうか。必死尽忠の士が空を掩《おお》うて進撃するとき、これを阻むものがあるか!」  美潰部が反撃する。 「モノは人の顔をみていうものだ。私は死がこわくていっているのではない。敵のスピードは三百ノットだ。その中に百や百五十ノットの飛行機を泳がせて、生還も未還もあるものか。バッタのごとく落されるでしょう。ものはタメシだ。私はこれから箱根の上空で、ただ一機であなた方を待っている。ここにおられる方のうち五十人が赤トンボに乗って来てごらんなさい。私一人でぜんぶ叩き落してみせる。だいたい、責任者は査察が足らんのじゃないですか。夜に出かけて、明け方に攻撃する方法だってある。私はそれをやってきた。そういうことを考えもせずに、すぐに�特攻�を口にすること、これがおかしいんです」  これで赤トンボの特攻化は防がれたが、沖縄決戦には中級練習機まで動員されたのだった。    手の届く「国家」[#「手の届く「国家」」はゴシック体]  大西中将の「特攻の思想」の背景には、いくつかの与件が考えられる。  戦局は最終局面である。通常戦闘法は指揮統率の限界にきている。青年将校は志操は高いが練度は低い。これを訓練する教官はいない。とすれば、残るのは士気のみだ。士気を高揚させるには�殉国の思想�がいちばん手取早い。青年の�殉国�には反撃効果は期待できないだろうが、アメリカ軍に対しては心理的打撃を与えうる。あるいは、日本人の存在を知らせうる……。 「沖縄決戦」の幕僚長が衝動的に�赤トンボ特攻�を口にしたのに対して、大西中将は思考の手続をふんで「攻撃」にふみ切っている。そして、ふみ切ったあげくに「国は負けても滅びることはない」という、大西の�国家論�に到達するのである。  海兵同期の寺岡中将や福留中将が、特攻出撃を迫られながら、積極的に踏み切れなかったことは前にのべたとおりである。寺岡中将は大西の前任者として比島にあり、東京からの命令を守って、飛行機の温存につとめていた。麾下の有馬正文少将が、この態度に業を煮やして、顔をあわせるごとに「特攻をかけましょう」と進言したが、絶対に容認しなかった。有馬少将は、台湾沖航空戦が始まると同時に、みずから特攻機となって散華する。  福留中将は大西中将に二日二晩、「特攻出撃」を迫られながら「俺のところは水平爆撃と急降下爆撃でやる」と拒み続けている。福留が特攻に踏み切るのは、大西が進発させた「第一次神風特別攻撃隊」の成功を確認してからだ。  三人とも同じ戦場に身を置きながら、大西だけが「特攻」のカードをひいたのは、戦術・戦略の思考の体系に「国家」を結びつけていたからではなかったか。しかも、その「国家」は、�神しろしめす�ようなものではなく、具体的に手の届く「国家」であり、経営の対象になりうる存在である。  大正の中頃、大西は二年間の英国留学から帰国すると、友人の徳田富二を京都の下宿にたずねている。  余談になるが、大西がひじょうに英会話に長《た》けていたのは、この留学の賜物である。のちに、彼は池田を通じてハワイの商社員を紹介してもらい、さらにその商社員から原住民を斡旋してもらって、米太平洋艦隊の偵察を行なっている。ひげをはやし、くたびれた船員服をまとって、下級船員専門の食堂やバーに出入りしていたというから、スパイに毛の生えたくらいのことはやっていたのだろう。大西が帰国したあと、商社員は徳田にむかって「あのひとは大酒呑みだったが、じつにうまく変装して、ついに一度も日本人であることに気がつかれなかった」と話している。  さて、徳田を下宿に訪ねた大西は、そこにドンブリものや氷水を取り寄せて、徹夜で議論をしている。話題はいくつかあったが、最も熱中したのは「貴族院論」だった。徳田が、貴族院議員の世襲制はイギリスの制度をそのまま真似たものであり、日本の議院制度にはふさわしくない、議会がある以上、天皇もひとつの機関であって、それを取りまく貴族院が世襲というのはおかしい、と「天皇機関説」をのべるや、大西は真向から反対した。 「日本の国は天皇中心にできている。これは、家長式に組みあがっているからで、そうである以上、貴族院の世襲制でなければ藩屏《はんぺい》意識が出てこない」  午前三時になってもまだ決着がつかず、二人は黒谷門前の町に食べものを探しに出ながら、空が明るくなるまで話しあう。 「大西、おまえの主張は、国づくりのうえの便宜論なのか。便宜論ならば、おれにも異存はない」  徳田がそういうと、大西はまたムキになった。 「便宜論どころか、本質論や、日本という国はそういう特質になっておるんやね」  大西のこういういい方には�忠君愛国�よりも�事実認識�という感じがつよい。    美談のある戦争はいかん[#「美談のある戦争はいかん」はゴシック体]  昭和十一年の「二・二六事件」のとき、大西は海軍大佐で、横須賀海軍航空隊副長兼教頭の職にあったが、輩下の青年将校に同調の色をみせるものがあると、これを殴りとばして訓戒を与えている。  後日、大西の訓戒的態度がおもしろくないと、新田慎一大尉が食ってかかった。新田は大西が目をかけていた飛行機乗りで、酒が入るとすぐ�虎�になるので、「虎右衛門」と異名をとったほどの男である。その日も横須賀の料亭で飲んでいたが、新田は大西が日頃の言動からすれば蹶起した青年将校に少しは共鳴すると思ったのに、かえって訓戒的態度をとったのは甚だおもしろくないといい出し、「あなたの血は赤誠の赤い血ではなくて灰色に濁った血だ」と、からみはじめた。すると大西は「この野郎、灰色の血か赤い血か見せてやる」と新田につかみかかり、大佐と大尉は四つに組んだまま階段から転がり落ちたものだ。翌十二年八月、新田は渡洋爆撃に参加、爆撃隊長として不帰の客となった。大西は通夜の席に駈けつけ、新田の写真の前に一睡もせずに端座し続けたという。  それから七年後、大西海軍中将は軍需省航空兵器総務局次長として、朝日講堂で「血闘の前線に応えん」という講演を行なっているが、この中でも彼は「美談のある戦争はいけない」と、冷静な歴史観をのべている。 「だいたい、非常に勇ましい插話がたくさんあるようなのは決して戦いがうまく行っていないことを証明しているようなものなのである。たとえば、足利・北条が楠木正成に対して、事実は勝った場合の如きがそれである。あの場合、足利や北条の方には目ざましい武勇伝なり、插話なりというものはなくて、かえって楠木方に後世に伝わる数多い悲壮な武勇伝がある。だから、勇ましい新聞種がたくさんできるということは、戦局からいって決して喜ぶべきことではない。この大東亜戦争でも、はじめ戦いが非常にうまく行っていた時には、個人個人を採り上げて武勇伝にするようなことは現在に比べるとズッと数は少なかった。いまはそれだけ戦いが順調でない証拠だともいえるのである。状況かくの如くなった原因は、航空兵力が残念ながら量において甚だしい劣勢にあり、制空権が多くの場合敵の手にあるがためである」    見る影もない航空部隊[#「見る影もない航空部隊」はゴシック体]  これほど客観化能力のある人間が、「特攻」を出したあと、その規模を拡大してしまう矛盾は、結局、彼の「国家観」「死生観」の問題になってくるのである。  そこで、敵の攻撃が激しくなり、戦局が我に不利になればなるほど、大西中将の「特攻の思想」は減速されるのとは反対に加速されてゆくのである。これは、大西がその論理構造に「国家論」を組みこんだことの悲劇的傾斜である。  十九年十一月中旬、レイテ島に上陸した米軍はタクロバンを足がかりにして、いよいよ比島攻略のプログラムを展開しはじめた。この頃から、わが航空部隊は船団攻撃に移ったが、飛行機の損耗は激しく、連合基地航空部隊は見る影もなくなった。  大西中将は猪口参謀を呼ぶと、「君、これから連合艦隊に飛行機をもらいにゆくよ」といった。 「長官が行ったのではおかしいですよ」と猪口がとめると、「いや、わしは連合基地航空部隊の参謀長としてゆくんだ。だいいち、わしがゆかんと飛行機はくれんのだ」と、大西は笑った。  大西は、一航艦と二航艦を合併して連合基地航空部隊をつくったとき、司令長官の座を福留中将に譲って、自分は参謀長の位置についている。  大西と猪口は、幕僚がそろえたデータを鞄につめると、一式陸攻に乗って出発した。このとき、大西は飛行機のタラップで足をすべらせ、うつむけに倒れて、したたかに胸を打った。顔面蒼白になって、しばらく、起き上れない。周囲のものが「おやめになったら」といったが、彼は「いや、ゆく」といい、急ごしらえのベッドに横たわったまま、横須賀まで飛んだ。  連合艦隊司令部は、九月に「大淀」から日吉《ひよし》に移っていた。大西は横須賀から日吉に直行し、猪口を帯同して豊田副武司令長官を訪れた。  豊田が椅子から立ち上って大西を迎えると、彼は猪口参謀の方を見やりながら、開口一番、こういった。 「長官、うちの先任参謀は、わしのやることをチョロイいいますですがナ」  猪口によれば、これは大西がよくやる手だそうである。まず、「相手に下駄をあずける」ようなことをいい、それから攻めてゆくのである。  大西は比島の戦況をくわしく説明したうえ、航空機三百機と飛行時間二百時間から三百時間のパイロットを欲しい、と申し入れた。 「米軍が、レイテのつぎにミンダナオに手をかけた場合、これだけあれば打つ手が考えられます」  豊田大将は、大西の申し入れに「なんとか考えよう」と答えた。半分は大西の怒濤のような説明に動かされた感じであった。  結局、連合艦隊司令部が決定したものは、航空機百五十機だった。大西の要求の半分だったが、これとても苦心惨憺してかき集めた兵力である。教育航空隊のある大村、元山、筑波、神《こう》の池《いけ》各基地からむしり取るように持ってきたのだ。  パイロットの方は、飛行時間二百〜三百時間どころか、やっとこさ実用機教程をおわろうとしている飛行時間百時間程度の予備少尉が主体で、これに若干の教官がついていた。    離陸と体当りだけ[#「離陸と体当りだけ」はゴシック体]  大西は以上の収穫を得ると、「さあ、早く帰ろう」と、早々に一式陸攻に乗りこみ、横須賀を離れた。  比島に向かう途中、台湾で猪口参謀をおろす。これは、豊田からもらった百五十機を一航艦に編入し、全機を特別攻撃隊に仕立てるためであった。  猪口は、台中あるいは台南で、内地からくる隊員に「特攻教育」をほどこし、つぎつぎに比島におくりこんだ。教育日程はほぼ十日間だった。  第一、第二日が発進訓練(発動、離陸、空中集合)。  第三、第四日が編隊訓練(出発時は発進訓練を併用)。  第五、第六、第七の三日間が接敵突撃訓練で、これには前教程の発進、編隊訓練が併用された。  考えてみれば、ようやく実用機教程をおわった予備少尉が、わずか十日間の訓練で実戦に参加するのである。彼らに施された教育は�離陸�と�体当り�しかないわけだ。このときから「特攻」専門の教育が始まったとみることができる。  特攻機の攻撃方法には「高高度接敵法」と「超低高度接敵法」の二種類があった。  前者は、五千メートルから七千メートルの高度で進み、目標発見とともに、約二十度の深さで機首を下げ、一気に突入して、高度二千メートルから千メートルのところを突撃点とし、約四十五度から五十五度で突入する。この方法だと、敵の迎撃機につかまらないという長所があるが、同時にまた索敵に不利であり、搭乗員に酸素吸入が必要になる。  超低高度接敵法は海面を低く這って進撃、目標の近くから急上昇し、高度五百メートルくらいで切りかえして、深い角度で突入するのである。  実際の攻撃にあたっては、この超低空攻撃と高高度攻撃が併用されたが、いずれも真直ぐに敵艦船の甲板に突き刺さるような�体当り�が効果をあげた。ある日、セブ発進の零戦がスリガオ水道からタクロバンに向かいつつあるとき、トラック付近で敵艦を発見、ただちに切りかえして突入したところ、ほとんど直角に巡洋艦の甲板に命中、ために艦は真二つになって轟沈したという。  猪口中佐が、台湾で一カ月間、特攻専門教育を施したのち、最後の十三機と比島に帰りついたのは十二月二十三日のことである。そのとき、司令部はクラーク基地の最北部にあるバンバン飛行場の近くの小丘に移っていた。すでに、都落ちの感が深い。  急製造の特攻隊員は、命令が下ると、黙々と飛行機に駈けより、離陸すればもう帰らなかった。    眼底に威力を持った少年[#「眼底に威力を持った少年」はゴシック体]  福留中将と大西中将の二人は、かならず出撃を見送った。福留はいつも小ざっぱりした服を着ていたが、大西はヨレヨレの軍服姿だった。  従兵の山本兵長が大西の服にアイロンをかけようとするのを見て、大西がとめた。 「もう服にアイロンをかける必要はないんだよ。そういう時期ではありませんよ」  そのころから、山本は大西の見てはならない姿を垣間見るようになった。大西は軍刀の手入れはきちんと行なっていたが、手入れがおわると、しばらくその光芒に目をあて、それから腹に突き立てる仕草をして、鞘《さや》に収めるのである。  山本はその姿を暗然として眺めている。そして、大西が揮毫《きごう》を求められると「決死不如不思死生」(決死ハ死生ヲ思ワザルニ如《し》カズ)と書く心情を了解した。  大西は、かなり若い頃から「死生観」を求めていたようである。  彼が柏原《かいばら》中学に入ると同時に日露戦争がはじまったが、旅順港閉塞戦の広瀬武夫中佐の話が、この少年の心をつよくとらえている。  彼が中学の寄宿舎から妹に書き送った手紙には、末尾に「兄、武夫」と書いているものが多い。  広瀬中佐に心酔のあまり、名前を借用しているわけだ。二級上に富田貴一という秀才がいて、この男はのちに優秀な成績で海兵に入り海軍大佐まで進んだが、これが大の広瀬武夫崇拝者だった。大西はこの先輩につよく感化されている。  富田は万事につけて徹底した男で、寄宿舎の学生長をしているとき、真冬でも学生たちに足袋をはかせなかった。大西もこれに倣《なら》い、正月休みで家に帰っても足袋をはかなかったという。彼の生家は兵庫県氷上郡青垣町にあり、いわゆる�丹波|篠山《ささやま》�の一隅で、裏日本型の気候に支配され、冬は猛烈に寒い。雪もかなり深い。このため�冬仕事�はなくなり、村人たちは酒づくりで有名な�丹波|杜氏《とうじ》�となって、灘や伏見に出稼ぎに出るのである。こんな風土の中で冬足袋なしにとおすのは、よほど強情なものでないとつとまらない。  大西の同級生に陸軍中将の大城戸三治がいる。大城戸の回想によると、二人で学校の裏手にある高鉢山に登った。雪の深い日だった。脛まで埋りながら雪を泳いでゆく大西は、裸足に下駄を突っかけた姿であったという。  しかし、私にとって印象的なエピソードは、小学校の旧師である内尾政玄の回想談である。  内尾は大西が一年生のときの担任だったが「質実|朴訥《ぼくとつ》な眼底に威力をもった少年であった」と印象をのべている。永いつきあいではなく、兵役の関係から一年半で、内尾は小学校を去る。  その日、全校の職員生徒が挙げて駅に見送りにくる。内尾の乗った汽車が、日の丸の小旗を後に流して駅をはなれ、三百メートルほど走ったところで、田圃の中に二人の少年が泣きそうな顔をして手を振っている。一人は三年生の富田貴一であり、もう一人は大西瀧治郎である。  全職員生徒の歓送の群から離れて、富田と大西だけが田圃の中で見送ったという風景は、偶然かもしれないが、大西が海軍将校になってからの姿勢に一貫しているように思われる。この見送りのときから大西は富田の感化を受けていたのではなかろうか。  富田も大西も、同じ中学に進み、同じ四年修了で海軍兵学校に入っている。    「人生は水泡の如し」[#「「人生は水泡の如し」」はゴシック体]  大西の「死生観」は「決死不如不思死生」に尽されるが、具体的には、母の|うた《ヽヽ》が亡くなったとき、長兄におくった手紙がその端緒を物語っている。  大正二年五月、大西瀧治郎は海兵を卒業して遠洋航海をおえたばかり、「筑波」乗組の少尉候補生である。その一部を紹介すると、 「悲しみても余りあれど、今に及びて何をか言はむ。只あきらめが大切なり。又一度思ひをひるがえして、宇宙を大観せんか、生必ずしも喜ぶに足らず、死|亦《また》悲しむに足らず、人生は古人の言へるが如く、宇宙なる大海に生ぜし水泡の如し。(中略)この大海に於ける水泡、何ぞ宇宙に於ける人生に彷彿《ほうふつ》たる。この水泡の生ずるは、人生の生まるるにして、泡の消ゆるは人生の死なり。而《しこう》して泡の生ずると言ふは、大海の水の風波等によりて、ただ実に不安定なる夢の如きものに形を変じてあらはれしのみ、水泡も之れ大海の水の一滴なり。  之れと同様に、水泡の消ゆるは、ただ其の形消えて、甚だ安定なるもとの海水に帰するなり。人生は之れ宇宙なるものの一分子が、甚だ不安定なる、果てなき泡の如き人生なるものに変ぜしなり」  瀧治郎、ときに二十二歳である。その年齢にはむしろ不似合なほどの�無常観�が、整然とした文脈で語られている。日付けに「五月二十一日夜十二時蝋燭の光にて」とあるが、当時の軍艦は燃料節約のため碇泊中は午後九時に消灯している。大西は、実際に、蝋燭の光の下で、この無常観を書き綴ったのであろう。  彼にとって、母親の|うた《ヽヽ》はきびしい存在であった。大西のいたずらがすぎると、容赦なく土蔵に入れ、頑固な少年が詫びるまで、扉をあけようとしなかった。それだけに、母の死は彼の胸中にあるものをひき出したのであろう。  彼は末尾に「終りに臨みて、我が亡き母上を歎美せむ。我が母上は全身之れ涙にて、女らしく且《か》つ雄々しきところおはしまし候」と書いている。 「全身之れ涙にて」は、大西の母親に対する心情の投影であろう。大西には、思考の順序が整然としている反面で、きわめて心情的な性向が見られる。  結婚後はじめて出港するとき、妻の淑恵が玄関で軍帽をわたしながら、ふと、涙ぐんだ。 「ヘンな顔するな」  大西が睨んだので、淑恵も「あんただって」と睨みかえす。ほどなく、乗艦から長文の手紙が来た。長文といっても、大西の手紙は三センチ四方の文字で書いてあるので、内容は冗長ではなく、箇条書きになっている。  一、男が家門を出ずるとき、気にかかるやうなことをいふべからず  一、涙を見せしは失礼にあらずや  一、火事のときに持ち出すものを整理し、夫に異変ありたるとき連絡すべきところを書きおくべし 「おせん泣かすな」式の手紙であるが、死への対面を薄く匂わしている。  第一航空艦隊司令長官として比島に赴く前夜、「平時なら名誉なことだが、いまとなっては陛下から白刃の載った三方《さんぼう》の箱をわたされたようなもの」と義母に語ったことは前に述べたが、同じ夜に妻の淑恵が「なにかおっしゃって下さい」というと、大西は歌うような調子で答えている。 「五十年、百年生きられるなら、いってもやろうが、もうすぐ灰になる身分じゃないか。いわんでおくのが花ですよ」    死場所を比島に求む[#「死場所を比島に求む」はゴシック体]  大西が豊田と直接交渉して編成した「新編特別攻撃隊」も、次第に、その姿を減らしていった。アメリカ軍は、昭和二十年に入ると、マニラの西方海面に進出、このため日本軍は北方へ移動を開始する。  大西が、ここでまた、ひとつの決断をする。二十年一月四日、彼は猪口先任参謀と二航艦の菊池朝三参謀長を私室に招いた。 「もう飛行機もなくなったことだし」と大西は角刈りの頭を撫でていった。 「後はわれわれが引き受けて、二航艦には早く下がってもらおうと思うが、どうかね、先任参謀」 「もちろん比島は一航艦の縄張でありますから、航空作戦のできない今となっては、足もとの明るいうちに下がってもらうべきです」  猪口が答える。菊池は「一航艦をのこしてわれわれだけが下がるのは困ります」と反対した。だが、大西は菊池の言葉に押しかぶせるように断を下した。 「よし、わかった。それではそうしよう。おれから福留長官に話すからね」  有無をいわせぬ態度である。この場面は、猪口参謀の手記に出てくるのだが、大西中将の胸中を語るうえで、かなり重要である。  大西が航空兵力をもたない一航艦を比島の山中に残し、二航艦を引き揚げさせようといったことは、つまりそれからの戦闘を陸戦に切りかえることを意味し、「特攻」を放棄したことになるであろう。これが第一。  第二は、あきらかに�死場所�を比島ときめていることだ。彼はその決断にあたって、福留中将とその二航艦を切り離している。  一月六日夜。台湾から一式陸攻が二機飛来した。二航艦の将兵を輸送するためである。ささやかな別れの宴があった。二航艦側に、福留中将や島崎航空参謀の顔が並んだ。 「ごきげんよう」  陸戦隊に変身した一航艦のパイロットが声をかけた。 「武運長久を祈ります」  二航艦が答えた。日本酒とスルメだけの送別の宴はすぐに終った。月はなく昏《くら》い空だった。歌うものも酔うものもなかった。  その夜、玉井中佐と中島少佐は、二航艦の転進を見送って帰ろうとするところを、伝令につかまった。大西長官が二人を呼んでいるという。  大西は私室で待っていた。玉井と中島が「二航艦は発《た》ちました」と告げると、「うむ」と頷いただけで、すぐに口をひらいた。 「一航艦はこれから山籠りするわけやがねぇ。ただ、誰か一人は後に残って、神風特別攻撃隊の心は伝えなければならんよ。それには、君たちがいちばん適当だと思うが、玉井君は二〇一空の全員が山籠りする以上、司令の立場からいって都合が悪かろう。そこでやねぇ、中島君に比島から出てもらうのがいいと思うんやが、どうかね」  中島は、とっさに言葉が出なかった。やはり「二〇一空」の飛行長として、特攻隊を編成し、訓練し、見送り、起居をともにしてきた。その自分が部下をおいて、ひとり島を出るにしのびない……中島が声をのんでいると、大西がその先をいった。 「中島君の辛い気持もわかるがね。しかし、いまは私情をはさむ時ではない。特別攻撃隊のことは、内地のものにはどういうものか、実際には体験がないのだ。このことは、だれかがその真実を伝えねばならんのだよ。君が出るのがいやだというなら、命令を出す」  中島少佐は、ここで泣き出した。命令を出されては恥である。ひとり島を出るのは遺憾のきわみだ。しかし、涙をおとしながら「おいいつけにしたがいます」といわざるをえない。大西は中島の言葉をきくと、椅子から立ち上ってきて、彼の手を両手ではさんだ。 「ああ、これでよかった。よろしく頼みますよ」  中島少佐が比島における神風特別攻撃隊の編成並びに戦闘の経過を徹夜で二通書き上げ、一通は特攻隊員であった清水武中尉にわたし、もう一通は自分がもってマバラカットの基地を飛び立ったのは、一月八日の、しらしら明けの時刻であった。 [#改ページ]    第 七 章    負けない思想[#「負けない思想」はゴシック体]  戦争における勝者と敗者の原則は、勝者に視野の拡大がはじまり、敗者にその狭窄《きようさく》がはじまることである。 「神風特別攻撃隊」の出現は、たしかにアメリカの将兵に恐怖と混乱をもたらした。空中を火焔に包まれながら一直線に突入してくる特攻機を見て、あるものは泣き叫び、あるものは発狂して、艦内をころげまわった。  日本側は、大西中将以下、特攻機を発進させることによって、自己と国家の運命を同心円の関係におくことになった。  大西中将の心情に即していえば、特攻発進以後、三段階に変化している。  最初は、「勝機をつかむ」である。レイテ沖海戦に出撃してきた敵空母の甲板を叩き、航空機の発着をさまたげて、その間に艦隊決戦を挑むというプログラムがある。「短切なる時期をとらえる」、その手がかりが「特攻発進」であった。  レイテ沖海戦は終った。しかし、特攻発進は終らなかった。こんどは「勝たぬまでも負けない」という思想が起点になってくる。大西中将が比島で指揮をとったのは、昭和十九年十月十八日から昭和二十年一月八日までの二カ月半の間である。この僅かな時間に、特攻は百十五回も出撃している。  機数にして四百三十六機。特攻実施数百九十九機。未帰還機百四十六機(直掩機として出撃したものを含む)。これだけの犠牲を払って、戦果はつぎのとおりだ。          撃沈 撃破  空母及び軽空母  0  9  戦艦       0  3  巡洋艦      0  7  駆逐艦      2  15  特装空母     1  13  LST      3  1  その他      6  11  大西中将が、この間に「特攻を出すことに狃《な》れることをおそれる」と呟いたことは、たしかである。しかし、最前線の司令長官として、ほかに戦う術があったかとなると、もはや絶望的な状態に陥っていたのも事実だ。そこで「狃れまい」としながら、ほとんど日常的に特攻を発進させるのだが、その精神的起点は「勝たぬまでも負けない」に求められるのだ。 「勝機をつかむ」から「勝たぬまでも負けない」へ変化し、そして最後に「万一、負けたとしても、特攻が出たことの精神的意義において、国は滅びない」という心情が出る。  大西中将における心情の三段変化は、いいかえれば、価値目的の変化である。その終点に「勝敗」をこえて「国家」が出てくる。  一方、特攻攻撃を受けたアメリカ側はどうであったか。最初のうちは、恐怖と混乱に陥ったが、そのような将兵たちの個人的経験は、戦術の原理には組み入れられなかった。なぜなら、アメリカ側では「視野拡大」という勝者の原則が作動していたからである。  すでに、システムの概念を明確にしていたアメリカの頭脳は、特攻機と艦船の被害とを数値化し、防禦法と攻撃法とを効率の一点で連結させることに成功していた。  すなわち、特攻隊の攻撃を受けた場合、ジグザグの回避運動をしながら防禦砲火をあびせる場合の艦船の被弾率と特攻機の撃墜率をハジキ出し、一方では、回避運動をしないで直進しながら特攻機を攻撃した場合の艦船の被弾率と撃墜率も計算し、それをつきあわせた結果、直進した場合は撃墜率は七〇%台になるが、被弾率はジグザグ運動の場合とたいしてかわらないという「対特攻工学」を編み出していたのである。それと並行して、機動部隊に編成する艦船も小型化し、特攻隊の目標を小さく絞ってもきたのだった。    死場所を求めて[#「死場所を求めて」はゴシック体]  日本側が精神的な価値目的を変化させたのに対して、アメリカ側は戦術上の価値目的を変化させている。これが、実際の戦闘で、ますます彼我の差を拡大する原因になった。  大西中将が「万が一、負けることがあっても国は滅びぬ」といい出したのは連合艦隊の命令で比島から台湾にひきあげてからである。  大西自身は、なんとかして比島に留まり、そこを�死場所�としたかった。これは、猪口参謀の手記に明らかに出ている。彼は基地連合部隊を解体して、福留中将の「二航艦」を比島から引き揚げさせ、自分は「一航艦」をつれて山に籠り、陸戦の決意を固めたのであった。  昭和二十年一月六日、「一航艦」のパイロットたちは、持てるかぎりの武器・食糧を担いで、いちばん奥深い陣地にむかって歩き出した。そのさなかに連合艦隊命令が届いた。  一、二航艦を廃止し、現在二航艦所属の各航空隊を一航艦に編入す  二、一航艦の受持ち区域に台湾を加う  三、一航艦司令部は台湾に転進すべし  四、搭乗員および優秀なる電信員を台湾へ転進せしむべし  五、実施期日を一月八日とす  大西中将はこの電報を受け取ると、小田原参謀長と猪口参謀をよび、「どう思うかね」とたずねた。小田原はなにもいわなかった。かわって、猪口中佐が発言した。 「長官はすみやかに副官をつれて、比島から出て下さい。あとのことは、小田原参謀長以下私たちが、二六航戦司令官を補佐してやりますから」  大西はすぐ切りかえした。 「しかし、おれ一人では司令部とは言えないじゃないか」 「それは屁理窟です」  猪口は必死だ。 「われわれ幕僚も、出られるようになれば後から出ます。ここはとにかく、足もとの明るいうちに比島から出るべきです」  この間にも、電報が入ってくる。「実施日を早めよ」といってくる。猪口は電文を見ながら、「このようにいってくるのは、大西その人を生かしておいて仕事をさせよう、というところにねらいがあると思われます」といった。前年十一月下旬、大西長官に随行して東京に帰ったとき、人事局員と先任参謀に、「最後の土壇場をリードできる人物は、勝ちいくさも敗けいくさも知り、かつ、航空戦力のすべてに通暁している大西中将よりほかにいない」と力説したことが、この電文になっていると信じるところがある。  大西は、それが癖の、ちょっと下唇をつき出すような表情でいった。 「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」 「勝つ手はないかも知れませんが、戦わなければならぬ手が残っていますよ。海と空に力を入れても期待できぬ今日、残された点は潜水艦にあると思います」 「大西も早まったと言われてもねえ」  以上の会話は、猪口中佐の手記に出てくるものである。この段階で、大西は「勝つ手はない」といい、いかにして負けるかという思想に入っていることを物語っている。それから彼は、「自分には陸戦の自信がない。自分に自信のないことを、他人にまかせるわけにはいかない」と、比島脱出を拒むいい方をして、猪口中佐を手こずらせている。    苦い送別の酒[#「苦い送別の酒」はゴシック体]  結局、大西中将は二六航戦司令官の杉本丑衛少将、吉岡忠一参謀、近藤空廠長と相談を重ね、連合艦隊の命令に従うことにきめる。  比島に残るのは杉本少将、吉岡参謀をはじめ司令部直属の兵員だ。中本軍医大尉と大橋主計大尉がこれらの兵員をあずかることになる。大西は、すでに山に入りはじめた兵を集めるのに三日かかるときくと、「それじゃ三日だけここに居よう」といい張り、一月十日まで司令部から動こうとしなかった。  比島を離れる日の前夜、ささやかな送別の宴を張った。冷や酒が、去る者と残る者の盃に注がれた。元日の朝、南西方面艦隊司令長官(大河内中将)の許に年賀に出向いた折に貰った酒である。大西は、斗酒なお辞せず、というタイプである。その彼が、特攻発進後は、酒を求める声さえ出さなかった。たった一度、大河内中将のところから帰ったあと、従兵に注文したことがある。 「山本君、お酒を飲んでみようかな」  山本が一本つけ、南京豆を添えて出すと、大西は眼をつぶるようにして静かに飲んだ。  送別の宴の酒は、冷たく苦かった。大西は、特攻隊員を朝日山に集合させ、簡単な訓辞を与えた。 「われわれは、敗けて台湾に渡るのではない。おまえらもそのつもりで、比島から出てくれ」  出発は午前三時になった。  大西長官・小田原参謀長・猪口先任参謀・花本航空参謀・門司副官、それに甲板士官・庶務主任・従兵の八名が一行である。マニラの司令部を出てクラーク・フィールドにむかう途中、従兵の山本長三は夜空に片鎌の月を見ている。中天に冴えて、雲を薙《な》ぐかのようであったという。クラーク・フィールドのバンバン川に架けた橋は、空襲で焼け落ち、仮架橋が設けられていた。そこが、リンガエン湾にむかう陸軍部隊でごったがえしている。 「陸軍に言って、橋をあけてもらいましょうか」  門司副官がいうと、大西は「いいよ、いいよ、陸軍は急いでいるんだ、陸軍を先にやれよ」と、闇の中で言った。約三十分、大西長官一行はクラーク・フィールドの片隅に立ちつくした。その間に、全員が階級章をはずした。 「あと三日くらいで、朝日山に敵がくるでしょうな」  門司大尉が語りかけると、大西はなにも答えず、夜の闇に眼を放っていた。  乗用機の一式陸攻の前に、残留部隊の各級指揮官が見送りに来ていた。 「長官、お元気で」 「おお、すぐ迎えに来るよ」  大西は、ひとりひとりに頷きながら挨拶をかえした。この見送り風景の中を、ひとりの男がそそくさと立ち去った。A司令である。その場の雰囲気では、台湾に逃れるものへの不満と受けとられても仕方がない態度であった。 「A司令はおらんのか?」  大西は、ふと、気がついていった。背伸びして、人垣の中を探すふうであった。 「壕舎にかえっておりますが」 「なにィ?」  大西の眼が光った。「呼んで来い、すぐ来るようにいうんだ」  下士官が駈け足で迎えにゆくと、A司令が不機嫌そうな顔をして見送りの輪に戻ってきた。大西はその顔に猛烈な一撃を加えた。 「貴様、俺が逃げ帰ると思っているのか!」  この言葉は、おそらく彼が残留部隊の将兵にいちばん聞かせたい言葉であったろう。大西は、A司令を撲ってその言葉を吐くと、こんどはきめつけるようにいった。 「そんなことで戦争ができるか」 「わかりました」  A司令の緊張した声が聞こえた。夜の闇に一式陸攻のプロペラが鳴り出した。大西中将の一行は、ゆっくりとタラップを上った。    もし射ち落とされていたら[#「もし射ち落とされていたら」はゴシック体]  一式陸攻は、アメリカ空軍から�ライター�と綽名された飛行機である。すぐに火がつくという意味だ。司令長官の移動には最も危険な乗りものだが、その夜は護衛機さえついていなかった。そのうえ、「敵機動部隊、高雄方面に来襲」との報が入っている。猪口参謀は気が気ではなかった。グラマンに見つかったら、ひとたまりもない状況である。しかし、大西は平然として、乗機の前方部に座を占めている。ひと言《こと》も発しなかった。  一式陸攻は密雲の上を飛んだ。高雄上空にさしかかって夜が明けた。が、密雲のため着陸地点がわからない。操縦士が雲の切れ間を探した。南にまわり、北に反転しているうちに、飛行機はショックを受けた。味方の高射砲が、敵機と間違えてさかんに射ちまくってくるのだ。門司大尉が、その動揺の中を、魔法瓶に詰めた緑茶を注いでまわった。彼は、気流が悪くて飛行機がゆれるものとばかり思っていたのだ。大西は、門司が注ぐ日本茶を眼を細めて飲んだ。  後日、大西は高雄上空の思い出話が出ると、「あの時、射ち落とされていたら、今頃、こんなに苦労をしなくてもよかったのになあ」と、何度も洩らしている。  比島引き揚げのあと、大西の心情は重さを増すばかりである。「特攻」を発進させたことには、「これは統率の外道なんだ」という自責の念がある。司令長官としても個人としても、心理的にはいたたまれない気持であろう。  大西は、海軍次官の多田武雄中将と親交があった。大西には子種がなく、しばしば周囲のものに、「俺の家は二重の無産階級だ」と、冗談を飛ばしている。それだけに、多田の息子の圭太を赤ん坊のときから可愛がり、「ちょっと抱かせろよ」と、松の枝のような腕の中で圭太を眠らせた。  その多田圭太が海兵を卒業し、海軍航空隊員として比島に出陣した。大西の発令で、彼も特別攻撃隊に編入され、「神風特別攻撃隊第二朱雀隊」の隊長機に乗った。僚機は、「戦三一三」の伊藤忠夫二飛曹である。  出発に先き立ち、多田圭太海軍中尉は大西を長官室に訪れている。十月二十六日の夜のことで、大西はそのときの模様を、かなりくわしく矢次一夫に語っている。  ——ある夜、外から俺の部屋のドアをノックし、「オッチャーン」と飛び込んできたやつがいる。ハッとしてみると、多田の息子の圭太で海軍中尉だ。べッドの前で挙手の礼をすると、「これから行って参ります」といった。俺がおどろいて「元気でやれよ」といってやると、圭太はすぐ部屋を飛び出していった。俺も思わず圭太のあとから飛び出すと、圭太の影が月明の中をどんどん走ってゆくんだ。それからまもなくして(十一月十九日)「多田中尉、いまより敵艦に突入す」という無電が入った。俺は、多田とは親友だし、圭太は子どものときから寝かせつけたり、相撲をとってやったりした仲なんだ。だから、このときは、じつに熱鉄を飲む思いがしたよ。それから、俺は軍令部次長になって多田といっしょに仕事をしてきたが、多田のやつは圭太のことを俺にひと言もきかないんだ。俺も、ついに口に出せなかったが、ずいぶん辛《つら》かったよ……。  矢次は大西の話を聞きながら、「ああ、大西は死んだら自分に代って多田中将に話してくれ」といっているんだな、と思った。大西自刃の日、枕頭にかけつけた多田夫妻にそのことを話すと、多田は瞑目し、夫人は泣き崩れた。    「洞窟の中で討死やぜ」[#「「洞窟の中で討死やぜ」」はゴシック体]  このエピソードは、大西中将が個人的な心情を洩らした唯一のものである。「特攻」を発進させた司令長官として、無論、私情を口にすることはできなかったわけだが、彼の胸中に悲傷の蟠《わだかま》りになっていたことは疑いない。  そのうえ、比島に残留部隊をおいてきている。にわか仕立ての陸戦隊である。米軍の攻撃にさらされた場合の惨状は誰にでも想像がつく。しかも、大西の軍人としての真意は裏切られて、彼が先に比島から帰そうとした二航艦の将兵たちは、搭乗員をのぞいて、全員が比島の山中に入ることになったのだ。  二航艦の司令長官・福留繁中将の従兵であった今北正春一等兵曹は、大西長官の一行に運よく便乗して、二カ月ぶりに高雄の土を踏んだが、出迎えに出た足立保の顔を見るなり、「比島は、今、えらいとこや」といっている。 「どうしたんだ」 「二航艦が解散してな、地上員は全員山籠りしているんや」  今北はそういうと、「みんな、きっとバンバンの洞窟の中で討死やぜ」と声を落とした。  大西は、二航艦の運命をも背負って、高雄に降り立っている。「特攻発進」に重ねて「比島での置き去り」、これが「山本五十六長官亡きあとの海軍のホープ」と若手の将校から仰がれた男の、心理的座標である。  終戦処理をめぐって、大西中将は「徹底抗戦」の最右翼にあったことは後に紹介するが、この大西の態度には彼の「国家観」のほかに、比島以後の心理的座標がすえられているように思われてならない。もちろん、客観的には愚かしい動きである。  高雄飛行場から北へ二キロゆくと高雄警備府があり、さらに二キロ北上すると小崗山《しようこうざん》という小高い山があった。そこに司令部の壕舎が設営されている。大西の一行が高雄飛行場を出ると、猛烈な空襲がはじまった。昭和二十年の年が明けて、はじめての空襲だった。  アメリカ軍は機動部隊から攻撃機を発進させているだけではなかった。中国の奥地から、B29の編隊を飛ばしてもいるのだ。つぎの戦局を沖縄方面にきめて、台湾を封殺《ふうさつ》しにかかっている。ところが、台湾における航空兵力はみじめなものだった。猪口中佐によると、旧練習航空隊所属の練習機と練習生が主体で、これに比島にむかう途中の飛行機を加えたものが兵力であったという。  もちろん、第一航空艦隊司令部は連合艦隊に対して、航空機と搭乗員の補充を要請したが、連合艦隊司令部は敵の次期の進攻地域を沖縄と予想、主たる航空兵力を九州方面に配備したため、台湾には百機しかまわしてよこさなかった。しかも、この百機も「陸続と到着」というわけにはゆかない。アメリカ軍の南西諸島攻撃によって、空輸はしばしば中断され、雨垂れ的にしか飛来していない。  大西中将は、再び、特攻を決意する。一月十八日、台南部隊にある零戦と彗星艦爆を主体として、台湾最初の「神風特別攻撃隊」が編成された。同日午後五時、大西長官はみずから台南航空隊の中庭に立った。 「本攻撃隊を神風特別攻撃隊新高隊と命名する」  長官はいった。爆装機十機、直掩機八機の編成である。直掩機はすべて零戦だが、爆装機は彗星艦爆が六、零戦が四になっている。春に先がけて散る者は、ほとんど二十歳前後である。ベテラン・パイロットの不足が、戦技には未熟な若者を「特攻」に乗らせたのだ。    「俺なんか絞首刑だな」[#「「俺なんか絞首刑だな」」はゴシック体]  大西は、若い隊員の顔を見まわすと、こういった。 「この神風特別攻撃隊が出て、しかも万一負けたとしても、日本は亡国にはならない。これが出ないで負ければ真の亡国になる」  猪口中佐は、この長官演説を聞いて「ちょっと、おかしいな」と思った。軍人に与えられた原理は、「必勝の信念」である。あらゆる手段を尽して勝とうとし、また、それが求められている。しかし、大西中将は司令長官という位置から、「負けたとしても」という言葉を使ったのだ。  軍人でさえ「おかしい」と思ったのだから、新聞記者の戸川幸夫が、「これは大変だ」と直感したのも当然である。彼は、長官の言葉をそのまま内地に打電した。司令部には通さなかった。ところがこれが新聞に載ると、台南航空隊の参謀たちは烈火の如く怒った。 「戸川記者をフィリッピンに送り返す」と強弁するものも出た。  大西は黙っていた。さわぎは副官の門司大尉の取りなしで収まったが、その後、戸川が大西に顔をあわせても、大西はなにもいわなかった。比島にいたときよりも、沈黙の時間が永くなっていった。  あるとき、食事の時間にイタリアの戦犯ニュースが伝わってきた。大西はそれを聞くと、会食していた将校たちの顔を見まわして、いった。 「おれなんか、生きておったならば、絞首刑だな。真珠湾奇襲に参画し、特攻を出して若いものを死なせ……悪いことばかりしてきた」  それから副官にきいた。 「貴公は腕が立つか? 剣道はできるか?」 「さあ、それほどは」 「俺の骨は太いよ。介錯《かいしやく》するときに、骨が折れますよ」  しかし、終戦の翌日、大西は自刃するに際して、介錯人をおかなかった。深夜にひとりで割腹し、頸動脈を切り、心臓をつらぬき、それでも明け方まで息があって、駈けつけた多田中将や児玉誉士夫に「介錯不要」といっている。「できるだけ永く苦しんで死ぬのだ」、これが理由である。この言葉に説明はいるまい。 「大西瀧治郎伝」の台湾の部分を読んでみると、彼の特攻隊員に対する訓示は比島時代にくらべて長くなり、「死とはなにか」に言及している。ことに、大西中将が第五基地航空部隊指揮官として、昭和二十年三月八日、「台湾各基地実視に際して」与えた訓示は、おそろしく長く、訓示というより自己確認の言葉のように思われるものだ。大西は、この冒頭に「開戦前からアメリカに対して勝算がないことはわかっていた」と断言している。 「米英を敵とする此の戦争が、極めて困難なもので、物質的に勝算の無いものであることは開戦前からわかっていたのであって、現状は予想より数段我に不利なのである。然らば、斯《か》くの如き困難な戦争を何故始めたかと言えば、困難さや勝ち負けは度外視しても、開戦しなければならない様に追いつめられたのである。敵の圧迫に屈従して戦わずして精神的に亡国となるか、或《あるい》は三千年の歴史と共に亡びることを覚悟して、戦って活路を見出すかの岐路に立ったのである。そこで、後者を選んで死中に活を見出す捨身の策に出たのである」  このあと、大西は「捨身の策」は|やみくも《ヽヽヽヽ》のものではなく、武力戦ではとてもかなわぬアメリカを長期持久戦にひきずりこんで、思想戦で勝とうとするものだ、と強調する。アメリカがおそれるのは人命の損耗で、そのために強大な物量の武器を用意したというわけだ。だから、われわれはこれをおそれず、日本人全体が特攻となり、人口の五分の一くらい死ぬ覚悟でぶつかれば、アメリカは人命損耗をおそれて必ず手を挙げる……。 「私は、比島に於て特攻隊が唯国の為と神の心になって、攻撃を行っても、時に視界不良で敵を見ずして帰って来る時に、こんな時に視界を良くすることさえ出来ない様なれば、神などは無いと叫んだことがあった。然し又考え直すと、三百機四百機の特攻機で、簡単に勝利が得られたのでは、日本人全部の心が直らない。日本人全部が特攻精神に徹底した時に、神は始めて勝利を授けるのであって、神の御心は深遠である。日本国民全部から欧米思想を拭い去って、本然の日本人の姿に立ち返らしめるには、荒行が必要だ。今や我が国は将来の発展の為に一大試練を課せられて居るのである。禊《みそぎ》をして居るのである」  このあと大西は、日本はガダルカナル以来敗北に敗北を重ねているが、アメリカは「強弩《きようど》の末|魯縞《ろこう》を貫かず」という言葉があるように、その力は次第に貫通力を弱めている。だから、ここで何年も何十年も日本が頑張れば、アメリカは必ず倒れるにちがいない。だから、われわれは必死の力をふり絞って、アメリカの力を弱めよう。大西は、「アメリカは人命損耗に精神的に耐えられない国」という前提を設けて、その視点から「武器は手段」であり、「忠死」が勝利の鍵であると説く。    「現状認識」プラス「忠死」[#「「現状認識」プラス「忠死」」はゴシック体] 「百万の敵機が本土に来襲せば、我は全国民を戦力化して、三百万五百万の犠牲をも覚悟して之を殲滅《せんめつ》せよ。三千年の昔の生活に堪《た》える覚悟をするならば、空襲などは問題ではないのである」  日本にとっても、「武器は手段」にすぎない。大西は、そのことにも言及する。 「航空部隊は、航空戦力を最大に発揮するのが其の任務であるのは勿論であるが、然し、従来の経験からすると、敵の攻略に当って全力を以て船団を攻撃する時は、二、三百機の飛行機も二日位で使いつくし、三日目位には十機内外が残るのみとなるのである。此の後は、一万数千の地上員の大部は地上戦闘員として、成るべく多くの敵を殺さなくてはならないのである」  この訓示は、さらに延々と続き、最後を「各自、定められた任務配置に於て、最も効果的な死を撰ばなければならない。死は目的ではないが、各自必死の覚悟を以て、一人でも多くの敵を斃《たお》すことが、皇国を護る最良の方法であって、之に依って、最後は必ず勝つのである」という言葉で結んでいる。  この訓示には、大西が「特攻」を思想化しようとする努力がよくあらわれている。私は、その部分を引用したつもりであるが、読んでわかるように、彼の思想化の作業にはひとつのパターンがある。  まず、現状認識がくる。つぎに「忠死」が接続される。その繰り返しである。  たとえば、米英との戦争に勝味がないことは開戦前からわかっていた、という大胆な発言をする。つぎに「死中に活を見出す捨身の策」を揚言する。 「三百機四百機の特攻隊で、簡単に勝利が得られたのでは日本人の心が直らない」と、否定的なことをいい、つぎに「日本人全部が特攻精神に徹底した時に神ははじめて勝利を授ける」と、死を接続させる。  この思考の手続は、「諌死《かんし》」や「憤死」のように、「死」に最大の効果を託しようとする日本的思考を土壌としているのではないか。戦争中、軍人はもちろん知識人の間でも、山本常朝の「葉隠」がさかんに読まれ、「聞書一ノ二」の「武士道トハ死ヌコトト見付ケタリ」「二ツ/\(生死)ノ場ニテ早ク死ヌカタニ片付クバカリナリ」が、非常時下の「生の哲学」として認識された。死ぬことによって生を完成させるという、甘美な響きを伴いながら「大死一番」という言葉もさかんに使われた。  しかし、この「葉隠」の解釈は、便宜的といって悪ければ、一面的なのではないか。「二ツ/\ノ場ニテ早ク死ヌカタニ片付クバカリナリ」は、死に最大の効果を託す思想ではなく、河上徹太郎氏が指摘するように「そうしなければ生が|なまくら《ヽヽヽヽ》になる」からであり、漫然たる生を|より《ヽヽ》鮮烈な生に蘇生させるための哲学ではないかと思う。「生き切る」ことの裏側に、その最大の反対概念である死と直面させたという解釈が「葉隠」にあってもよかろうと思われる。  そうでなければ、「現状認識」プラス「その打開策としての死」という方程式が、いつでも許されることになる。国家主義思想の持ち主が「憤死」するのも、極左の青年が身を挺して文明社会の一隅を焼くのも、現世的な自己の位置を否定したあとで、ひとつの「価値」として蘇ることを信じている点では同一ではないか。実際は「死」によって論理や心情は停止され、彼が予想した「効果」は生の側にあるものと交換性を持ちえなくなるのだ。    狭窄化した敗者の視野[#「狭窄化した敗者の視野」はゴシック体]  大西中将の「百万の敵機が本土に来襲せば三百万五百万の犠牲をも覚悟して之を殲滅せよ」という言葉は、死後の効果の密度に対する壮烈な挑戦である。 「葉隠」はいう。 「毎朝毎夕、改メテハ死ニ死ニ、常住死身ニナリ居ル時ハ、武士道ニ自由ヲ得、一生越度ナク、家職ヲ仕果スベキナリ」  この「死生観」にくらべると、死後に生じる価値から逆算される思想は、思考の粘着力が足りないように思われてならない。大西中将の台湾における訓示は、「特攻の思想」を心情の画用紙いっぱいに描いたかの感がある。「大西郷を科学したような男」といわれた大西が、その生涯の末期にこのような思考方式を発表したのは、彼の心情に「特攻発進」が大きな屈折を与えたからであろう。  前にものべたように、大西の「特攻発進」の目的は、「短切なる時期に勝機をつかむ」「勝たないまでも負けない」「負けても、特攻発進があれば、国は滅びない」の三段階に変化している。最後の段階では、「精神的亡国」の屈辱だけは回避したいと願っている。日本は、もともとそういう国ではないという、国家に対する哀切な認識がある。  この認識の裏側に、アメリカは「明確な戦争目的を持たない国」で、「人命の大なる損失は、忽ち国内で大なる物議を醸し、戦争の遂行に心配がある国」という設定がある。だから、特攻はアメリカ人に対して効果があるということになる。大西が、この点を本気で考えていたかどうか、私には疑問である。むしろ、「特攻の効果」を強引に「アメリカの敗戦思想」に結びつけようとしたように受け取れる。 「特攻」はいうまでもなく、最後の手段である。これ以上の手はない。大西が比島で特攻を発進させて以来、帝国陸海軍はこの「最後の手段」のところで足踏みをはじめたのはいうまでもない。敗者の視野は狭窄化《きようさくか》するばかりだ。  アメリカは、たしかに「人命損耗を苦痛とする国」であった。「之の代りに厖大な物量を以てせんとするもの」であった。しかし、問題は「物量」と同時にその「運用」を考える国でもある。「手段」を発展させる力があった。これが、オペレーションズ・リサーチ(OR=運用研究)という作業を産んだ。  アメリカ海軍は、最初ドイツ潜水艦に対するORを行なった。これには先例がある。イギリス海軍がその痛い経験から、爆雷が海中で爆発する深度を研究していた。その結果、海中百フィートで爆発させるよりも、二十五フィートで爆発させるのが最も効果的だとの結論に達した。ところが、当時の信管技術は三十五フィートの爆発深度しかえられない。そこで、その深さでやってみると、潜水艦の撃沈数は一挙に四倍にはねあがった。このように、新しい技術の開発に金や時間をかけず、在来のものの運用の仕方をかえるだけで効果をあげることを、オペレーションズ・リサーチというのである。捕虜になったドイツ潜水艦の乗組員は、「爆薬が二倍にふえたのかと思った」と述懐したそうである。    非常手段の日常化[#「非常手段の日常化」はゴシック体]  アメリカ海軍は、対潜作戦の研究から出発したが、日本の特攻機に遭遇するにおよんで、この防禦策のORに手をつけた。彼らは、攻撃を受けた艦艇がどのような運動をすればよいかを四百五十の例で分析した結果、たとえば小艦は対空火器の命中率をあげるために、ゆっくりと運動し、さらに被撃直前に艦首を捻ることを勧告された。相撲でいえば�肩透かし�である。  このORが東南太平洋の全艦艇に伝達されて以来、日本の特攻機の戦果は四〇%も低下してしまったのである。 「大西瀧治郎伝」の著者は、「戦後米海軍から発表された文献を綜合すれば特攻命中機は四百五十機に上っている。この数字は海軍特攻機総数二千四百五十機の実に一八%強に当り、これに陸軍特攻機五百機(実際は千機。うち海上の目標に突入したものを約半数とみる)を加えた海陸軍合計二千九百五十機としても、命中率は、一五%強に相当する。平時演習に於ける命中率は、数十%の好成績を示すことも少なくないが、砲弾雨飛の実戦場裡に於ては、統計上二%内外といわれる。航空爆撃にあっても大同小異である。特攻戦果は殆どその十倍に当るのである」と書いている。そして、「もとより、特攻の是非善悪やその価値判断を、戦果の多寡に求めるのは当らない。特攻の真の批判は、形而下《けいじか》の戦果にあるのではなく、形而上の問題にあるのであって、その裁断は後世史家の厳正なる史観にまつべきであろう」と結んでいる。  たしかに「特攻戦果は十倍」なのであるが、その「価値判断」は、一方が特攻という非常手段を単に反復していたのに対し、他方はその対応策を積極的に展開していた、そのポイントにも求められるべきではないか。いや、さらに問題なのは、特攻という「非常手段」が、「日常手段」になっていったことであろう。  この「日常手段」の中で、多くの若者が死んでいった。彼らは、ほとんど自分が死ねばアメリカも戦争をやめる、とは思っていなかった。「日本が精神的亡国から救われる」という自負心もなかった。ある学徒出身の特攻隊員は、鹿屋の基地に川柳をのこしている。   勝敗はわれらの知ったことでなし  彼らは「皇国の礎《いしずえ》となるために死ぬ」と書いているが、それは戦争末期に二十歳前後となった人間の、精一杯の生き方でもあったと思う。彼らの遺書が、父母や兄弟姉妹への限りない優しさに満ちているのは、そのような死=生き方しか選べなかった人間の真情であろう。  たとえば、猪口力平・中島正共著「神風特別攻撃隊の記録」の中で、神風特別攻撃隊・第二・七生隊の海軍少尉林市造(京大出身・昭和20・4・12、沖縄方面で戦死)は、鹿屋基地で「母への便り」を書いている。電灯がないので焚火《たきび》をして書いたという。 「……必ず必中轟沈させてみせます。戦果の中の一隻は、私です。最後まで周到に確実にやる決心です。お母さんが見て居られるに違いない。祈って居られるに違いないのですから、安心して突入しますよ」 「お母さん、ぐちをもうこぼしませんから、お母さんも私についてこぼさないで下さいね。泣かれたとてかまいませんが、やっぱりあんまりかなしまないで下さい。私はよく人に可愛がられましたね。私のどこがよかったんでしょうか。こんな私でも少しはとり得があったんだなあと安心します。ぐうたらのままで死ぬのは、やはり一寸つらいですからね。敵の行動にぶり、勝利は我々にあります。私達の突込むことにより、最後のとどめがさされましょう。うれしいです。我々にとりて生くるはキリストなり、死するも又キリストなりです。これが誠に痛切に思われます。生きているという事は有難い事です。でも今の私達は生きていることは不思議です。当然死ぬべきものなのです。死ぬことに対して理由をつけようとは思いません。ただ敵を求めて突入するだけです。(後略)」    生き残ってはならない若者[#「生き残ってはならない若者」はゴシック体]  ことわるまでもないが、特別攻撃隊員になることは強制ではなくて志願の形をとっている。それは形式上のことで、当時の雰囲気からいえば、「志願をしない」という選択は、ほとんど許されなかったろう。若者たちは「志願」をしたときに「死」を選んでいる。いや、航空隊を志願したときに、「生きること」をやめている。この心理構造を最も深く洞察したのは、川副武胤の「天意の死」というとらえ方ではないかと思う。  川副は「学徒出陣の記録」(あるグループの戦争体験)の中で、三高時代の同期生であった江口昌男と林尹夫が、性格は正反対といっていいほど違い、しかも二人とも運動神経が鈍かったにもかかわらず、海軍予備学生に応募して航空隊に入り、ともに戦死したことを語って、つぎのように結んでいる。 「エッケルマンとの対話であったか、ゲーテはモーツァルトの死について、それを天の意志であるかのように語り、天才の死の必然を逆説的に説明したが、私もまた、この二人の死にそのような意味を附したい。彼らはこの世に生き残ってはならなかった人間であるような気がしてならない」(「若くして逝ける者たち」抜萃)  大西中将の「特攻の思想」と「天意の死」を選んだ若者の思想の交点は、ついに「国家」の一点でしかない。  昭和二十年一月十五日に、「第一新高隊」が発進して以後、特攻はひき続き行なわれるのだが、戦局の進展とともに、「特攻」は大西中将の部隊のみではなくなる。  二月十六日、有力なアメリカ軍の出足はいよいよ速くなり、硫黄島に殺到した。関東方面に展開していた「第三航空艦隊」はすぐさま迎撃したがたいして効果はあがらなかった。米機はわが物顔に本土を襲い、損害を与えてゆうゆうと引きかえしてゆく。  ついに、第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将は特攻を決意、六〇一空司令の杉山利一大佐に編成を命じた。寺岡中将は、かつて比島で一航艦をひきいていたとき、第二六航空戦司令の有馬少将から何度も「特攻編成」の進言を受けながら、これを却下していた人物である。二月十九日、茨城県の香取基地で、「第二御盾特別攻撃隊」が編成された。隊長は村川弘大尉である。  二十一日発進。いったん八丈島に着陸、補給したのち、正午ごろ再び舞い上り、一直線に硫黄島に殺到した。  零戦十二、艦爆十二、艦攻四、雷撃機隊四の総計三十二機である。  硫黄島東方海上に目標を発見。隊長機がバンク(翼を振る)する。つぎつぎに突入。この「第二御盾隊」は夕刻までに、空母一隻を撃沈、同二隻を撃破、貨物船一隻、上陸用舟艇二隻に損傷を与えている。    敵は見つからず[#「敵は見つからず」はゴシック体] 「特攻」は、もはや大西中将の領域から無制限に拡大しはじめたわけである。当時、海軍の航空兵力は、五航艦六百(本土西半部)、三航艦八百(本土東半部)、十航艦四百(本土各部)、一航艦三百(台湾)の合計二千百機である(もっとも、朝雲新聞社の「沖縄方面作戦」によると、一航艦・三航艦・五航艦とも実数はつかみにくく、十航艦は七百機から千機とみてよいように書かれている)。このうち十航艦は搭乗員が錬成途上で、とても戦線に出せる程度ではなかった。しかし、アメリカ軍の進攻のスピードは、搭乗員の錬成のスピードよりも速かった。そのため、十航艦の�練習生�たちも、小型艦艇に対する攻撃要員にまわされたのである。ところが、前に紹介したように、アメリカ側はORによって、小型艦艇は�肩透かし法�を使い、そのうえ対空砲火の密度も上げていた。結果は「飛んで火に入る夏の虫」になったことはいうまでもない。  大西中将の第一航艦司令部も、小崗山の壕舎を出て新竹に移動した。沖縄が決戦場になるにつれて、発進基地を近づけたと見てとれる。しかし、じつは一航艦側に切実な事情があった。  参謀長であった菊池朝三少将によると、一航艦には満足な飛行機がなく、練習機まで索敵機として使用しなければならない事情にあったという。練習機は航続距離が短い。そこで、すこしでも沖縄に近寄ろうと基地を移したのである。だが、それもあまり効果はなかった。練習機であれ実用機であれ、搭乗員の索敵能力が落ち、目標を発見できぬ日が多かった。小崗山のときもそうであったが、新竹に移ってからも、無聊《ぶりよう》の日が続いた。「敵も見つからず、見つけても満足な飛行機は持たず」という状態は、誰にもはっきりわかっていた。ただ、誰もそれを口にしなかっただけだ。日本が敗戦の淵に落ちこんでゆくのを、心の中でわかりながら、無聊に耐える日々である。 [#改ページ]    第 八 章    児玉君のウィスキー[#「児玉君のウィスキー」はゴシック体]  台湾の壕舎は暗かった。  新竹基地に移動してすぐ、アメリカ空軍の空襲があり、基地の防空壕に一トン爆弾が命中した。司令部は直ちに基地前方の赤土崎《せきとざき》という小高い丘に移った。  春が来て、丘から見下す町に、思いがけない明るさで花が咲いているのが見えた。 「つぎは、沖縄だな……」  誰もが、いちどは口に出していうようになった。  大西は、しきりに比島に残して来た部隊を思った。台湾へ移動した当初、毎日のように偵察機が飛んで、クラーク・フィールドの状況を見て報告した。 「きょうも、クラーク基地に日章旗を振るものが見えました」 「そうか……」  大西は、すっかり憔悴《しようすい》した頬にわずかな笑みをうかべた。が、やがて偵察機の搭乗員はなにも報告しなくなった。  二十年の年が明けると、偵察機が近よることもむずかしくなった。ある日、大西は従兵を呼んだ。 「児玉君がくれたウィスキーがあるだろう。あれを比島に送りなさい」  従兵が戸惑った顔をしていると、彼はすこしいたずらっぽくいった。 「カボチャや大根のタネが入った袋があるでしょう。あれにウィスキーを入れて、しっかり口をしめるんだ」  それから、彼は比島に残った杉本司令官に手紙を書き、ウィスキーの袋につけるように命じた。 「敵の手に渡っても、べつに軍事機密は書いてないからな。だいじょうぶだ……」  そういう日常の中を、新竹基地から特攻隊が発進していった。搭乗員は離着陸がやっとできるくらいの、若いパイロットである。  風防ガラスの中で、真白な歯をちらっと見せて、レバーを一気に吹かして発進するものがあった。腕を上下に振って別れを告げるものがあった。服に桃の花を插してゆく若者もいた。  滑走路に並んで見送る将兵たちは、滅茶苦茶に帽子を振った。振らなければ、涙があふれてくることが、誰にもわかっていた。  大西は、司令部に共通の宴会を一切やらなくなった。たまにくつろぐときは、歌のうまい菊池朝三少将に「暁に祈る」を歌わせ、じっと眼を閉じて聞き入っている。  彼は、壕舎の中を下駄ばきで歩いた。ひとつには水虫が悪化したこともあるが、なにか捨て鉢のような仕草が感じられた。  四月一日、ついに米軍が沖縄に上陸を開始した。  陸軍と海兵隊の精鋭、合計七個師団で約十二万。わが第三二軍と陸戦協力隊の約二倍である。機動部隊と航空兵力の戦力を評価すると、わが方の七倍半。火力に換算すると十数倍の圧倒的進攻作戦である。  鹿屋から「菊水特攻隊」が発進した。海軍からは十三期、十四期の予備学生、陸軍からは特別操縦見習士官の二期生、三期生が、わずかな生を一瞬にかけて突入した。  海軍はさらに第二艦隊に「水上特攻」を命令、また前年以来訓練を重ねてきた「桜花」も投入された。一式陸攻の腹につけられた「桜花」は、高度六千メートルで切り離され、三万メートルの射程距離を死にむかって飛翔《ひしよう》した。千八百キロの爆薬が一人の人間とともに空から落ちてゆくのである。    戦場むきの人間[#「戦場むきの人間」はゴシック体]  四月十七日、大西中将に海軍軍令部次長が発令された。小沢治三郎中将の後任である。これは、あきらかに政治的発令であった。  当時、海軍内では海軍省と軍令部とが�和平�をめぐって決定的に対立していた。大づかみにいうと、米内海相を頂点とする�省部�は和平工作に傾き、豊田軍令部総長を頂点とする�令部�は戦争継続を主張していた。  矢次一夫の回想によると、大西を東京によぶ決定を下したのは岡田啓介大将であろうという。  しかし、当の岡田はもちろん、誰も大西を�軍政の人物�とは見ていなかった。大西自身も、軍需省から比島の第一航空艦隊司令長官に転出させられたとき、送別の宴席で矢次に「おれは戦場むきの人間だよ」と語っている。  ただ、海軍部内で�戦場むきの人間�を必要とする空気があったのである。  二十年の一月のことだ。矢次が酔っ払って松平康正を訪れた。玄関先で辞去するつもりでいると、戸塚道太郎中将が来ていて「あがれ」といった。戸塚は大野藩の士族の出で、昔の�殿様�に挨拶に来ていたわけだ。  戸塚と矢次はへべれけに酔って、岡田邸の門を叩いた。深夜の訪問であったが、岡田は起きてきて二人をもてなし、「大西をつれてきて戦わせんといかんな」といった。 「陸軍には阿南あり梅津ありだ。しかしわが海軍で大臣のつとまるヤツは小沢、多田、伊藤くらいなものだ。戦争を続けるにせよ、和平の手を打つにせよ、若者を戦地におくりこめるだけの魅力ある人物は、大西しかおらんよ」  矢次は、酔いも醒める思いで、岡田の言葉を聞いている。  昭和二十七年、横浜市鶴見の総持寺で大西の墓の建立式が行なわれたとき、矢次は墓の前に立って、参集した元海軍軍人にこういった。 「大西という男はバカな男でした。豊田副武大将は、東京裁判の法廷で�大西の徹底抗戦論は部内の不満分子を抑えるために許したのです�といっている。まことに、それに踊らされた大西はバカです。高木惣吉少将は大西を愚将だといいましたが、彼はまったく貴重な愚直さを持っていました。彼を軍令部という金魚鉢に入れたのは、鉢の中にナマズを入れたようなものです。なぜなら、大西という男は、たとえ日本が勝っても腹を切るような男だからです」  大西が「踊らされる」ことを意識していたかどうかは、はっきりしない。むしろ、後に述べるように、彼はそういうことを意識せず、彼なりの考えで行動したといった方がよさそうである。 「さらに二千万人が戦死すれば、日本には名誉ある和平がやってくるでしょう」  彼は力説した。このプログラムに�正気�は感じられない。まさに�狂気�である。しかし、彼は�狂気�を正気でやったのではないかと思う。狂気という規範を超えたものがなければ、彼の認識する�敗戦・日本�は考えられなかったのである。    規格からはみ出す部分[#「規格からはみ出す部分」はゴシック体]  大西は「戦う将官」として海軍の組織の中に組みこまれてしまった。本来は頭脳的な男で、自分のプログラムを持ち、それを行動に移して、つねにリーダーシップをとる立場に立ってきた。それが、戦争の収拾の局面では�最右翼�の要因として組みこまれてしまったのである。人間の社会集団の不思議さともいえる。  この男の人間的規模には、いつも規格からはみ出し、あふれている部分がある。そういう部分を産むことによって、逆に規格そのものを生命あるものにしようとする狙いさえ感じられる。  大西は、かつて部下の福元秀盛に手紙を送って、所信を述べている。 「海軍航空は小生の生命にして、之が健全なる建設発展の為には、小生個人の名誉等は何等問題に無之、又小生の信じて行はんとする所は、御聖旨に合致しありとの信念を有し、何物も恐れず候」  彼はこの所信のとおり、「何物も恐れず」といったことを、つぎつぎと敢行している。  実技でいえば、新竹の舶来水上機にこっそりと試乗し、島影でスタント(特殊飛行)をやってみたり、飛行船を操ってみたり、まったく生命がいくつあっても足りないような実験をこなしている。  また、それをもとにして綿密な「飛行訓練計画」をたてて軍令部に上申、部内に衝撃を与えてもいる。 「一花はひらく天下の春 一波は動かす四海の波」とは、彼が好んで色紙に書いた辞句であるが、彼自身が尉官の頃から�一花�たろうとし、�一波�たらんと努めるところがあった。  飛行機の操縦もそのあらわれだが、大正五年、まだ海軍中尉のときに、「中島飛行機」の創立に奔走《ほんそう》して、譴責《けんせき》をくった記録がある。  この年、中島知久平機関大尉と馬越喜七中尉が、欧米で学んだ新知識を傾けて、複葉の水上機を設計した。これが横須賀海軍工廠の長浦造兵部で完成され、横廠式と名づけられた。  中島は、航空の将来に着眼し、航空機は国産すべきこと、しかもそれは民間製作でなければ不可能であるとの結論を得た。これを大西中尉にひそかに打ち明けたところ、大西も大賛成で、中島の意図を実現させようと奔走しはじめた。当時、大西は同期生にこう語っている。 「中島知久平さんが海軍をやめて飛行機製作会社をつくりたいといっている。なかなかの奴だから是非実現させてやりたいが、資本主が見つからないで困っている。おれは、阪神で資本主を探すつもりだ」  彼が、真先に飛びこんだのは山下亀三郎の事務所である。山下を前にして、飛行機の将来を論じ、国産の必要を説き、中島への支援を懇請した。山下は、手元の「海軍中尉 大西瀧治郎」という名刺と、目の前で滔々《とうとう》とまくしたてる士官の顔を見くらべながら、眼を白黒させた。大西の演説が終ると、山下はいった。 「あなたが渋沢栄一さんならカネは出してもいいが、海軍中尉ではとても出せませんよ」  山下は資金提供をことわったうえ、海軍省に照会したため、大西中尉は出頭を命じられ、「軍人に賜わりたる勅諭」を三回暗誦させられてから始末書をとられた。  中島の「飛行機製作会社設立願い」は海軍省内でそうとうな問題になった。当時の軍人は�一身上の都合�では退職できないことになっている。そのうえ、海軍には日本海海戦以来の「大艦巨砲主義」が根強い思想になっている。一方では、中島のような優等生を離すまいとする考え方と、他方では「海軍のカネを使って勉強しておきながら、私的会社をつくるとはけしからん」という非難がまきおこった。  大西も、このときは軍籍をはなれて中島の会社に入ろうと決心していたが、中島はともかく、大西には「退職の理由なし」ということで却下されたという。    大艦巨砲主義を一擲せよ[#「大艦巨砲主義を一擲せよ」はゴシック体]  ところで、中島知久平はこのとき「退職の辞」を書いているが、これには「戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲《いつてき》して、新航空軍備に転換すべきこと」「設計製作共国産航空機たるべきこと」「民営生産航空機たるべきこと」の三点が強調されている。  後年、大西はさかんに「艦船無用・航空充実論」を主張したが、この主張の原点は中島の「退職の辞」にあるといわれている。そして、大西の航空思想をさらに発展させたのは、山本五十六との出会いである。  山本が航空畑に入ったのは中佐のときで、当時海軍大学の教官であったが、井出大将の欧米航空事情の視察に随行を命じられ、帰国後、霞ヶ浦海軍航空隊教頭に任じられている。これが大正十三年のことだから、航空では大西の方が先輩になる。  山本は航空畑に前後七年半いたが、この間に「国産機の製作は軍事上焦眉の急務」であることを説き、航空本部の技術部長の時代にその政策を打ち出した。これが海軍航空隊は「山本が生みの親・大西が育ての親」の論拠になっている。  前にものべたように、山本が昭和十六年十二月の「真珠湾攻撃」に先立ち、その立案について大西瀧治郎に研究を依嘱したことは、両者の関係からいっても当然であろう。  山本は、このとき福留繁参謀長に対して「わざわざ傍系の大西に計画の検討をたのんだのは、自信がつくまで私個人の研究に止めておきたいからだ」と語っている。  大西は、この山本案に対して「真珠湾内の魚雷発射は、水深が浅いため不可能なこと」「ハワイ周辺の哨戒圏は六百|浬《マイル》に達し、機密保持がむずかしいこと」の二点をあげ、山本にこれを説明する一方で、福留にも「長官にあの計画を思いとどまるようにいってほしい」とたのんでいる。そのうえ、後日、草鹿龍之介少将といっしょに山本を訪れ「計画変更」を具申してもいる。  しかし、山本はついに所信を曲げなかった。日米決戦という大局から見て、「結局桶狭間と鵯《ひよどり》越と川中島とを合わせ行なうのやむを得ざるハメに追込まれる次第」を洞察していたわけである。  大西は山本の知遇を得て、ますます「海軍航空隊」の充実に拍車をかける。これが海軍部内の�大艦巨砲主義者�には�暴論�とさえ受けとられた。ましてや、陸軍の一部には大西を�奸物視�する向きもあった。  昭和九年、福岡市で民間防空指導を目的とする軍事講演が行なわれた。海軍代表は大西瀧治郎、陸軍代表は久留米師団の防空担当参謀があたった。  陸軍は、昭和四年の大阪防空演習以来、毎年各地で演習をくりかえし、その実績をもとにして勅令さえ公布している。防空担当参謀は防空心得や実施要領を丁寧に説いた。続いて大西が登壇した。彼は、民間防空もさることながら、防空の本旨は敵機をして本土上空に進入せしめない事にある、それには海軍航空隊の充実が先決的急務というべきで、国民はこれを重点に考えてほしい、とのべた。そのあと、もっともいくら航空隊を充実しても、敵機をすべて討ちとることは不可能だから、侵入機に対する民間防空は必要だとつけ加えた。  しかし、陸軍は大西演説に激怒した。勅令まで発布されている民間防空を軽視したとして、ついに久留米師団から佐世保鎮守府に抗議文をおくり、中央でも陸軍省内で問題化しようという声が立った。海軍は、その体面上からも率直に受け入れることはできず、大西の所説は真実であるが、ただその表現が率直すぎたという表現をとった。  これは些細な一例であるが、大西瀧治郎という男の発想法が重点指向型で、形式的な枠組みを全く無視してしまう風景を物語っていよう。  このあとすぐ、陸軍の一部から「陸海軍の航空部隊を一本化して�空軍�をつくろう」という提案があった。彼らはこの合併思想に熱心で、もし航空部隊の一本化が無理ならば、せめて航空廠だけでも一本化しようと主張した。  これに対して、海軍側では航空本部長の山本五十六中将が強硬に突っぱねた。山本は技術本部長のとき、粒々辛苦して飛行機国産の途をひらいた経験がある。その結果、海軍の技術は陸軍のそれをはるかに上まわっているが、いまここで合併したのでは、海軍の技術は停滞せざるをえない。これは欧米の技術との格差がふたたび開くことを意味する。それに、陸軍と海軍が技術を競争すればこそ、競争原理が働いて、優秀な飛行機が出来るのだ、という意見である。  大西はこの「陸海合同論」に対して、意見らしい意見をいっていない。「大西瀧治郎伝」の著者は、大西は敬愛する山本の意見に従ったのだろうと推測しているが、大西は「技術提携」はとにかく「作戦提携」にはむしろ自分の方から提案することが多かった。    むき出しの人間性[#「むき出しの人間性」はゴシック体]  昭和十四年、中支航空作戦の指揮官として運城飛行場にあったとき、彼は蘭州攻撃に陸軍と共同しようと提案している。陸軍機と海軍機の性能を克明に計算し、陸軍機だけでは無理だが、海軍機が提携すれば、有効な戦力になりうるとの判断に立っている。  また、レイテ作戦のときも、大西は自分の方から富永陸軍航空司令官を訪問して、両軍の攻撃目標の範囲をきめ、「縄張りよりも戦果主義」を提案したものだ。  事実、最初の特別攻撃隊が発進したときは、陸軍基地からも偵察機が何回か飛び立ち、アメリカ軍機動部隊の捜索を続けている。  大西が「航空優先論者」であることは前にも述べたが、彼はこれを主張するとき、きまって「艦船優先論者」の中にある官僚思想を手きびしく批判した。その批判の裏側には、海軍の制服を着て日常業務しかやらない人間への軽侮がこめられていた。  つまり、彼は「航空優先」を主張することによって、日露戦争以来の考え方に挑戦しようとしない硬直性そのものに挑戦したのである。古い思想を攻撃するためには新しい思想しかないというのが、彼の考え方である。あるいは、現実とか日常性とかいうものからいつも自由であろうとする人間性がむき出しになっている。後に述べるように、彼は結婚や家庭に対しても世俗一般の常識を見せていない。彼が結婚したのは満三十六歳、海軍少佐のときである。それまでに友人が芸者に産ませた子をひきとって、家庭争議を救ってやったり、なかなか珍妙な人生ドラマを含みながら気ままな生活を続けている。  矢次が大西にあったのは昭和十四年のことである。太い眉の下に強い瞳を光らせ、下ぶくれの顔をしてのっそりあらわれたときは、一目で「これが嫌われものの大西だな」とすぐわかった。 「国策研究会」主催の晩飯会がおわり、矢次は上落合、大西は高円寺と、帰る方向が一緒になった。  東京駅から中央線に乗ってしばらくすると、大西が、突然、口をひらいた。 「君は、じつにつまらん人間とつきあっているんだな。今夜の会に来ていた連中は海軍のクズだよ」 「そうか、クズかね」 「ああ、クズだ。クズもクズ、人間のクズだ」  矢次は、電車の中で、海軍少将が「海軍のクズ」という言葉を吐くのを聞いて、いささか慌てた。それからまもなく、例の「軍艦を海の底に沈めて、空軍省にしよう」という大演説を「国策研究会」の席上でやってのけるのである。    周囲に集まった民間人[#「周囲に集まった民間人」はゴシック体]  戦争中、「海軍はアメリカ軍よりも陸軍と熱心に戦っている」という言葉が囁かれたが、大西は海軍の中の艦船主義者と戦うことも多かった。  彼の周囲には、児玉誉士夫、川南豊作、石原広一郎などの民間人の姿があった。また、人相見、指圧師、それに観音教の岡田茂吉なども出入していた。岡田は初対面の席で「B29なんか念力で落すようでなければいかん」といった。大西が「バカをいえ。それじゃ貴様、おれがいまピストルを射っても貴様にはあたらんか」と笑った。「射ってごらんなさい」と岡田がいう。大西は「よし」といって拳銃をかまえた。岡田はじろりと銃口に眼をあてると「さ、どうぞ。射っても弾丸の方が私をよけてゆきますよ」といった。大西はそれを聞くと「ふわッ」と妙な声を出し、「貴様はたいへんな奴だなあ」と握手を求めた。  大西を愛する人たちは「まるで西郷隆盛か清水次郎長だ」とおもしろがったが、海軍の将校の間では「いかものばかり集めて得意になっている」と、評判が悪かった。鈴木貫太郎内閣の書記官長だった迫水久常も、大西が軍令部次長になってからも「矢次や児玉とつきあいすぎる」という批判を耳にしているのである。  しかし、大西はそういう声をなんら意に介していない。それどころか、航空兵器総務局次長のとき朝日新聞から「航空機増産」というパンフレットを刊行したが、その中で彼は児玉誉士夫を正面きって褒めそやしている。少々、長くなるが、この一文は大西と民間人のつきあいの内容を語る代表的なものなので、ここに引用する。 「私の知人の児玉誉士夫氏は、今度の戦争が始まると同時に、�今は右翼も左翼もない。政治問題なんかやっている時期ではない。直接戦力に寄与貢献する仕事をやりたい�というので、それ以来海軍省嘱託として非常に重要な任務をやって貰っておって、非常な成績をあげている人であるが、ある鉱山が自分の手に転がって来たので本務の片手間に部下を使ってこれを開発しているが、はじめは鉱石を出していたが、そのうちに三〇%乃至八〇%の高品位の鉛の鉱石にぶつかったのである。最近、その溜まった鉱石百トンを献納に来たが、そのとき�今後その山から出る鉛の鉱石は、全部軍需省に献納します�と言った。そこで、私は、児玉君に�全部ただで献納しては、君は損するじゃないか�というと、彼は�運賃と精錬費とは、あなたの方で持って下さい。しかし、採掘と選鉱の費用は一文もいりませぬ。国に献納するんだというので、皆が殆ど奉仕的にやって呉れているので、費用は一カ月に三千円要るだけです。一年でも三万六千円です。私は色々な報酬等で貰った金が今十万円あります。二年や三年は私の財産を皆投げ出して、それで大丈夫です。鉱石に対しては一文も要りませぬ。この戦争が負けたならば、私の金なんか問題じゃないから、こんなものはすっかり出します�と言う。国と死生を共にするということに徹底して現にこれを実行しているのである。一般には口では滅私奉公を唱えるが、本当にそうなっていない。問題は何でも実行である」  つまり、大西と児玉の間には篤《あつ》い人間的交流があったことはもちろんだが、大西にとって児玉を先頭とする民間人は、彼の「航空優先論」の実質的な協力者でもあったのだ。大西の重点指向性は、軍とか民間という枠をとうに飛びこえていたのである。    児玉機関の誕生[#「児玉機関の誕生」はゴシック体]  いわゆる「児玉機関」の誕生と活動については、児玉自身が書いた「風雲四十年の記録——悪政・銃声・乱世」に詳しいが、要約していえば、昭和十六年十一月末、当時航空本部長だった山県正郷海軍中将が、国粋大衆党総裁・笹川良一を通じて児玉に接近したことに始まる。  このとき山県は、これからの時代は航空第一主義になるのだが、飛行機生産の資材は艦政本部の手に握られて、とても必要量がまわってこないことを訴え、こうなったら上海その他の外地で「航本」の必要とする資材を集めるほかはないが、それを児玉にやってもらえないかと依頼した。  児玉は、上海にある興亜院の出先機関と艦政本部がひそかに海軍武官にやらせている「万和通商」が邪魔しないことを条件にこの仕事をひきうけ、何度か生命の危険にさらされながら、棉花・銅・ヒマシ油・雲母など、航空機に不可欠な物資を集めて「航本」に提供し続けた。ことに中国何億かの民衆がふるくから使っている銅幣(銅銭)は、鋳《い》つぶすとすぐ軍用資材になるので、地方軍閥との間に危い橋をわたりながら集めている。これを上海で熔《と》かし、インゴットにして日本におくり、古河鉱業で電気銅になおして「航本」にまわすのである。  山県中将は、やがてアンポン島方面の司令官として転出、後任に大西瀧治郎中将がすわった。大西はそのまえから児玉という人間を観察し、山県から引き継ぎをうけると、さらに大きな仕事をやらせている。  児玉は将官待遇を受け、「児玉機関」はそのうち内地のタングステンや鉱石の発掘まで手がけて、軍部の「嘱託機関」としての体裁をととのえていった。この仕事で彼が蓄積した財産は、終戦時の金で現金五千万円にダイヤ、ルビー、翡翠《ひすい》などの宝石であったが(もっとあったが中国に置いてきている)彼はこれを天皇家の窮乏を救うべく宮内庁に預けている。ところがGHQの捜索があるというので、辻嘉六や矢次一夫の家に運び直し、辻はその一部を土中に埋めた。これが、鳩山一郎・河野一郎の「自由党」結党資金となったのである。  このほか、大西は�ダボハゼ�といわれるくらい、いろいろな人物やアイディアに飛びついた。ひとつには、彼の形式にこだわらない性格、もうひとつは艦政本部が技術畑の人事権まで握って、航空関係にあまり人をまわさなかったことによる。  久保田芳雄少将によると、艦政本部が�航空主力�の認識を持ちはじめ、これが技術面に反映してきたのは「レイテ戦以後である」という。久保田は海軍機関学校を足立助蔵と同期で、中尉のころマサチューセッツ工科大学に留学、マスター・オブ・サイエンスを修了した、折紙つきの技術将校である。  大西中将は、軍需省航空兵器総務局から比島へ転出するとき、第三局(資材)長をしていた久保田を呼んでいった。 「じつはな、すこし�内職�をしていたんだが、これは後任(酒巻中将)には内緒にして、君が面倒みてくれよ」  大西のいう�内職�とは、軍需省の正規の帳簿にはのらない資源開発だった。これが二つある。ひとつは、児玉機関にやらせていた山梨県乙女峠の鉱山開発である。タングステン、モリブデンの鉱山で、戦前ドイツ人が経営していたものを譲り受け、児玉誉士夫に請負わせていた。第二は、鳥海山にある砂鉄の熔鉱炉だ。これは、大華冶金と大華工具という二つの会社を経営する人物にやらせていた。この社長は東京高工の出身で、鋭すぎるような頭の持ち主だが、それだけに奇矯《ききよう》な行動が見られたという。  久保田はこの�内職�を打ち明けられたとき、「あいかわらずダボハゼだな」と、五十すぎても衰えぬ好奇心の強さに感心したという。    水を油にかえる法[#「水を油にかえる法」はゴシック体]  昭和十四年の夏、ある民間科学者が「水を石油にかえる法」を開発したというので話題になった。なんでも、水を試験管に入れて数滴の液をそそぎ、それから密閉して湯煎《ゆせん》すると、水が石油にかわっているという。阿川弘之の「山本五十六」によれば、その年の正月、貴族院議員で公爵の一条実孝が山本海軍次官にその話をしたらしい。山本は、最初、とりあわないふうだったが、半年もすると「嘘なら嘘で徹底的に調べる」といい出し、大西瀧治郎を横須賀鎮守府の石川信吾大佐の許に使いに出した。石川は数年前にこの話をきき、友人で海軍機関学校出身の森田貫一に実験に立ちあってもらっている。ところが、ある日、森田が「アルキメデスの法則がやぶられた」と、興奮の面持ちであらわれた。試験管の中の物質量には変化がないはずなのに、突然、ぽかりと浮び上るものがあって、その時、水が石油に変っているという。 「そんな話を森田から聞いたので、これは実験を続けていると、いよいよ騙《だま》されると思って、打ち切ってしまったんだ」  石川からそういわれると、大西はそのまま山本次官に報告した。 「よし、海軍省でとことんまでやってみよう」  山本は、早速、その男を東京に呼びつけ、水交社に泊らせて実験させた。  以上は阿川の「山本五十六」に出てくる話だが、久保田少将の回想によると「話は大西に持ちこまれ、大西は山本次官に伝えたが、山本次官は頭から問題にしなかった」という。もっとも、いずれの場合にせよ、幕僚や副官たちは「また、例の大西さんの吹きこみだろう。はた迷惑にも程がある」と、顔をしかめたとなっている。  幕僚たちにしてみれば、大西にはある種の�前科�があった。航空本部の教育部長をしているとき、妻の父親の教え子に水野義人という骨相学の研究をしている男がいて、これがパイロットの適性も手相・骨相でわかるといったことに興味を持った。彼は、すぐ、霞ヶ浦航空隊の副長をしていた桑原虎雄に電話をかけ、 「あなた宛に紹介状を書いて霞ヶ浦にゆかせるから、ひやかしのつもりでいい、一度あって話を聞いてやってほしい」といった。  桑原は、水野がたずねてくると、教官・教員百二十数名を昼食時に集めるから、適性を甲乙丙の三段階にわけてみてくれ、といった。  水野は、パイロットの顔を一人あたり五、六秒ずつ見て、甲乙丙の評価をつけた。ところが、その的中率は八七%であった。  桑原はおどろいて大西に電話をかけ、水野を海軍航空隊の嘱託にしようと相談、霞ヶ浦海軍航空隊司令の名で「参考トスルハ可ナラン」という上申書をつくり、これを大西に託して各方面を説かせることにした。  ところが、人事局も軍務局も大西の話をきくと吹き出してしまい、「いやしくも海軍が、人相見にたのむとはなあ」とかなんとかいって、相手にしない。そこで桑原は大西を同道して山本を訪れ、事情をくわしく話して、嘱託採用の斡旋《あつせん》方をたのんだ。  山本も山本で、じかに水野を呼んでテストし、観相学の原理まで傾聴したうえ、その場で水野の採用を決定している。  本来は、山本と桑原が水野の�効用�を信用したのだが、海軍部内では「大西さんが妙な話をもちこむものだから」と、規格外の話はすべて大西を火元にしてしまうのだ。だからこそ、�ダボハゼ説�が信じられるのだが、彼もまた自分で「おれはダボハゼみたいな男やからな」と吹聴して歩いたものである。  さて、「水を油にかえる法」は、久保田軍務局第三課長(当時)をはじめ、軍令部の課長クラスも混じえて、その立ち合いのもとに実験が行なわれた。  水を二十本の試験管に入れ、目薬のようなものを数滴たらして、密閉して湯煎する。実験は深夜である。将校たちが睡気でボンヤリしていると、「できた!」という声がした。そこで「石油になった」という試験管を金庫に納め、男を水交社に帰してから調べると、ほんとうに石油になっていた。軍令部参謀で、真先に「特攻」をいい出した城英一郎大佐などすっかり感心して興奮がなかなか醒めない有様だった。 「やはり、われわれが科学と信じているものはまだまだ浅薄なもので、超科学的な力が作用するのだろうか」  海兵や海大を出た連中でも、そんなことを囁きあう空気があった。  ところが、一方ではその男のインチキを見破るべく、いくつかのプロットが仕組まれてもいた。  海軍省で石油の技術面を担当する渡辺大佐は、実験の前夜、翌日使用される試験管のくわしいスケッチを、製図工に命じて完成させている。  さて、実験がおわって、金庫に格納された試験管を取り出し、スケッチした図柄とくらべてみると、二十本のうち一本だけ、あきらかにガラスの中の気泡の位置がちがうものがあった。しかも、その試験管だけが石油に変っている。  これでインチキが暴露されたが、こんどは現場を抑えようと、もうひと晩実験をやらせた。先夜感激させられた城参謀が実験中に狸寝入りをはじめる。すると男は、内ポケットにしのばせた試験管を取り出し、実験中のものとすりかえた。  大西はインチキ男とその学問的裏付けを行なった東北大助教授某を海軍省内に呼び、試験管がスケッチしてあったこと、中身が石油になっている管だけがちがっていることを告げ、簡潔に、 「以上で試験はおわりだ」  とだけいった。二人が這々《ほうほう》の態で海軍省を飛び出した途端、まちかまえていた警視庁の刑事が躍りかかって縄を打った。  こういうときの大西は、すこし芝居っ気をたのしんでいるふうであるが、刑務所に入った二人に差し入れをしたのも大西である。  航空機をつくる場合、いちばん問題になったのは、鍛造・鋳物の部門であった。発動機や機体の研究は早くからすすみ、工程も合理化されていたが、鍛造・鋳物部門は十対一の割でおくれていた。だから発動機が十できても、脚部は一しかできないという具合である。  ところが「東京鍛工」という有力会社に役員の派閥争いがおこり、生産性が著しく低下するに至った。そこで軍需省も放っておけず、社長の首をすげかえて重役を一本化しようとはかった。 「鮎川義介にたのもう」  大西は即決すると、日産自動車の社長にあい、「東京鍛工」の社長も兼任してもらうことをきめてきた。ところが社内でいままで抗争していた重役陣がにわかに一本化し、日産系社長の排斥運動をはじめた。すると大西は、 「よし、俺がいってくる」  と腰をあげたが、いったん家に帰ると、ありったけの勲章を胸につけて会社に出かけていった。大西が重役たちに何を訓示したか不明であるが、とにかくそれで騒ぎがしずまり、生産は順調にいったという。  大西の説得力を疑うわけではないが、彼がそれに勲章の効果を添えたこともありうると思う。    博徒になりたい[#「博徒になりたい」はゴシック体]  妻の淑恵の記憶によると、大西はしきりに�博徒�になりたがっていたという。  大西は麻雀、ブリッジ、ポーカーなどの賭事に眼がなく、そうとう強かった。また、研究熱心でもあった。友人の徳田富二が、あるとき霞ヶ浦の航空隊をたずねると、大西は「おれはいま�大数の法則�を研究しているんだ」と、ダイスを振って出る目の回数を書き入れた紙を一尺以上も積みあげてみせた。  足立少将によると、この大西と山本五十六がポーカーをはじめると、正反対の性格があらわれるという。  山本は口の中でブツブツいいながら、「ああ、そういうことをされてはかなわんな」と泣き続け、負けが込んでくると「きょうはどうも勘が冴えてこないんだ」と、終始、泣きを入れる。が、敗ければ敗けたで、金を払うとケロッとしてしまうそうだ。  大西の方はその反対で、終始むっと押し黙ったまま、壮烈な手を打ってくる。勝ちに乗ずると、手がつけられないくらい激しい勝負に出る。そのかわり敗け出すと、下唇を突き出し、唸り声をあげて攻勢に転ずるキッカケをつくろうとする。ついに負けて金を払う段になると、「こんど、また、やりましょう」と凄い眼で睨むという。  大西が「おれは海軍をやめたら博徒になる」といったのは、東京市内の麻雀大会で優勝し、大阪の全国大会に出場する資格を得たときである。しかし、現役の海軍中佐(当時)がそういうこともできないので、偽名のまま出場していたのを幸い、優勝を棄権してしまった。このときから彼は「海軍よりこっちの方がおもしろい」といい出したが、あながちそれはギャンブルに対する興味だけではなく、彼のまわりに蝟集《いしゆう》する無法者の自由な生き方に憧れてもいたようだ。  ある夜、軍需省の�御用商人�が大西家の勝手口に逃げこんできた。大西が物資を集めるため、公定価格で単価三十八銭のものを七十八銭で買い上げるからと約束し、商人の方もその価格で取引きしたところ憲兵に見つかり、追われているという。 「おとなしく刑務所にいってらっしゃい。いま、若いひとがどんどん死んでいるじゃあありませんか。あなたも三年か五年入ってきたらどうです? 静養になりますよ」  大西は静かにいった。 「静養ですって?」  男もただ者ではない。大西に見込まれ、利鞘《りざや》四十銭もの仕事をする男だ。 「大西さん。もともと七十八銭でもってこいといったのは、あなたなんですよ。それで刑務所に入るのが私ってのは、いったい、どういうわけですか」  いまにも腕をまくろうとする剣幕である。大西がにやりと笑った。 「戦争がおわって、われわれが悪いとなったら、二十年でも三十年でも入る覚悟なんですよ。あなたの身がわりで一生入ってもあげましょう。これでどうです?」  そういうと、男は椅子からさっとおりて「私の思いちがいでした」と、絨毯に頭をすりつけた。 「そうですか、行ってくれますか、有難う」  大西はそれだけいうと、男の靴を玄関にまわさせ、背中に手をおいて「さようなら」をいった。そのあと、彼は男が出所するまでその家族の消息をたずね、面倒を見ることを絶やさなかったという。    裸でぶつかって来い[#「裸でぶつかって来い」はゴシック体]  高位高官の者には誰にでもある、陰徳のエピソードかもしれない。しかし、いつも「国家の大事」を口にしている大西にこのような態度を見ると、行動の振幅がひろいというより、彼の人間的規模が「海軍士官」からはみ出しているように思える。  この規格外の素質が後進の士官たちに好かれたことも当然であろう。  夕食時に士官がくると、「おれの家には上座というものがないからな、どこにでもすわれ」とすわらせ、酒と食事を用意させて、気のすむまで話しこんだそうだ。そんなとき士官が「夜分にすみません」というと、「男はすまないと思ったら来るもんじゃないよ」とたしなめ、 「海軍省内では秩序というものがあるが、この家に入ったからには人間どうしだ、裸でぶつかってこい」  と、大きな瞳で睨んだ。  昭和十九年十月、敗色濃い比島に第一航空艦隊司令長官として姿をあらわしたとき、現地の士官たちが「大西さんが来てくれた」と、いっせいに喜んだのも、海軍という�血�をわけあった先輩・後輩の自然な感情であろう。  しかし、大西が軍令部次長として東京に帰ったとき、部内はむしろ彼に冷たかった。真先に「徹底抗戦」を唱えたことが、時勢の本流を知らぬ経験主義者の暴論と受けとられたからである。  大西は心情から出発した発言をし、将官たちは客観条件を眺めながら発言をしている。  二十年四月、空襲で大西の家が灰燼に帰した。彼が会議中のことだった。児玉誉士夫がかけつけ、「様子を見てきましょうか」というと、大西は、 「妻が死んでいたら、あなたの手で埋めて、静かに葬ってやって下さい。それだけです」  と、会議室に消えていった。 [#改ページ]    第 九 章    腕力をもつて補う[#「腕力をもつて補う」はゴシック体]  大西瀧治郎が結婚したのは満三十六歳である。永いあいだ独身であったわけだが、これは、彼の人間像をかなり有力に物語っている。 「大西瀧治郎伝」の著者は、彼の晩婚の原因をもっぱら�飛行機乗り�の立場に求めている。大西と兵学校同期(四十期)で航空学生を命ぜられた者は十五名、全クラスの一割にあたる。ところが、この三分の一は平時の飛行訓練で死亡し、のこり十名も二度や三度の事故は普通のことで、大西自身も数度にわたって生命を失いかけている。晩婚の話とは別になるが、彼ほどいくつかの偶然に生命を救われたものも珍しいのではないかと思われる。一例をあげると、昭和十二年八月、当時大佐であった大西は朝鮮の済州島から渡洋爆撃隊に加わったが、このときの模様を竹中大佐(後、中将)はつぎのように語っている。 「私は基地で四中隊三番機が撃墜されたと聞いたとき、シマッタと思った。大西大佐がその三番機に搭乗すべく指揮所を出ていったからである。ところが、四中隊の帰還機が着陸すると、大西大佐がのこのこと出てきたので、二度びっくりした」  たしかに、大西は三番機に乗るはずであったが、出発間際に飛行場の片隅でゆうゆうと放尿していたためこれに乗りおくれ、否応なしに手近の二番機に飛び乗ったのである。彼の飛行歴の中で、この種の話はふんだんに出てくるが、それは同時に�飛行機乗り�の消耗率の高さを物語っているだろう。  当然、航空将校には縁談が薄かったし、彼らの方でも独身で通そうと考えていたものが少なくなかった。大西もその例外ではない。しかし、大西の晩婚はこうした一般論のほかに、彼自身の性格が重なってもいる。  前出の渡洋爆撃の話でもわかるように、彼は大佐の階級で攻撃部隊に参加している。当時の海軍航空隊では、司令(少佐以上)になると、実戦機には搭乗せず、基地で指揮をとるのがふつうであった。大西は、そういう�内規�を無視して、さっさと乗りこんでしまう。しかも、三角形の編隊を組んだ場合、いちばん敵の攻撃を受けやすい後方の翼端に位置する飛行機に乗るのである。  軍隊以外の組織でも、みずから好んで風波を浴びやすい位置につくものがある。それが彼の人生観であったり、あるいは組織のモラールを高める企図から出ていたりする場合がある。大西の場合でいえば、その両方ではないかと思う。  しかも、彼は大酒飲みの喧嘩好きときている。彼の喧嘩好きは、多血質というより、口ベたから来ているようだ。  彼の出身地である兵庫県氷上郡芦田村(現、青垣町)は、中国山系の丹波高原の一画をつくり、周囲を多くの峠で囲まれている。地形は長野や松本のような盆地であるが、気候は裏日本式で秋・冬は雨雪が多く、気温がひどく低下することがある。初夏から秋口にかけては、いわゆる�丹波霧�として有名な霧が盆地一帯を包みこんでしまう。周囲の山々は、霞をまとって水墨画の趣を呈する。以上のような自然条件から、造林業がさかんで、耕地面積は青垣町の一割にもみたない。したがって、地域の人々は�出かせぎ�で収入を補うほかはない。酒づくりで有名な丹波|杜氏《とうじ》や岐阜の寒天づくりなど、みなこの地方の出身者である。  そこで、山間盆地という地形的には閉鎖社会でありながら、�出かせぎ�の人々がもちかえる情報がこの地域に刺戟を与え、ふだんは寡黙であるが議論をはじめると理屈っぽいというタイプの人間をつくる。  大西もその典型的人物のひとりで、友人の徳田富二によると「話しだしたら、彼くらい頑強な男はいなかった」と述懐している。  もうひとつ挙げておきたいのは、彼が十三歳のときから�家庭生活�を味わっていないことである。  氷上郡は現在でも�教育郡�の別名があるほど教育熱心な地帯で、江戸末期にもかなり有名な「青渓書院」という塾があり、戦前は長男を師範学校に入れ、半農・半教員で生計を立てる家が多かった。この教育熱に支えられて、芦田村の小学校からは年に二、三人、柏原《かいばら》中学に進学する。柏中《かいちゆう》は当時姫路中学と並ぶ名門校である。芦田均もここの出身者だった。しかし、芦田村から柏中まで三里半の道程である。当時、子弟は家郷を離れて寄宿舎に入る。大西もこの寄宿舎に入り、室長をしていた。  昭和三十六年に、浅草の山谷に住む山本潔が「六十祝祭」という詩集を出している。この中に「生きのまにまに」という自叙伝が収められているが、山本もまた柏原中学の出身で、�室長・大西瀧治郎�に触れて書いている。 「大西さんは寄宿舎の室長をしていましたが、変な奴がいるとその男を蒲団の中へまるめこみ二階の窓から下へおとすというようなこともやり、この大西さんには誰も手出しするものがありませんでした。学力も優秀でした」  大西は十三歳で柏原中学に入り、中学四年修了で海軍兵学校に進み、卒業して艦隊勤務についている。つまり、彼の青年時代はほとんど同年の男性だけの世界ですごされているのだ。後年、三十六歳の海軍少佐で結婚したとき、妻を伴って芸者のはべる宴会に顔を出したが、余興をせがまれると、ひどい調子はずれで�丹波篠山�を歌って、妻の淑恵を面食わせている。  実際のところ、大西が歌える唯一の歌は「丹波篠山お山の猿が、花のお江戸で芝居する」という�デカンショ節�であったらしい。淑恵は、大西の芸者遊びをしばしば聞かされてきたので、さぞかし粋な小唄のひとつも出るだろうと思っていただけに、しばらくは呆気《あつけ》にとられていたといっている。  大西の�口べた�は、その成長期において、対人間関係を結ぶ機会が少なかったことからもきていよう。それが直截《ちよくせつ》な表現法をとらせ、ときには意あまって言葉足らずという状態に直面すると、腕力をもって補うという行為に出るわけである。  つまり、彼が三十六歳まで独身であったということは、飛行機乗りの危険度もさることながら、彼の行動が縁談を遠ざけていたともいえる。大西瀧治郎と松見嘉子(後年、淑恵と改名)をひきあわせたのは、海軍少将・井上四郎である。  昭和三年、大西は佐世保で空母「鳳翔」の飛行長をつとめている。松見嘉子は、江戸時代の一橋家の典医の家系である。父の文平は、神田順天中学の創立者で、教育界では名の通った人物である。嘉子はその六人の子の次女にあたる。    拳骨が降つて来た[#「拳骨が降つて来た」はゴシック体]  両家の見合いは佐世保市内の料亭で行われたが、淑恵の回想によると、大西の言動は、終始、松見側の常識を超えていたという。  まず、松見家の方で「嘉子は再婚ですが」とことわると、大西は「ああ、そんなことかまいません。私なんか、何婚か、わかったものではありませんから」と大笑したものだ。そのうち芸者がどやどや入ってきて、彼女たちにもその席が見合いの席であることがわかると、大西は「おまえたちも、俺にゆかれて淋しかろうが、我慢しろ」といってきかせる始末である。  彼は、その日、眼の上を怪我して傷跡があった。淑恵の母が「軍務上のお怪我ですか?」ときくと、大西はしばらく説明の言葉を探していたが、ついに、「先夜、上の方から拳骨らしきものが降ってきましてなあ」と、嬉しそうにいった。なにしろ海軍少佐が、盃を傾けながら、芸者遊びの話や喧嘩の話をするのだから、教育家の家庭の方はずいぶん困ったらしい。淑恵は、口もきけないほど、おどろいていたという。  大西はそんな空気にかまわず、自分の風貌について語った。見合いのまえ、彼は、「眉目秀麗とはゆかずとも、目鼻立ちはハッキリ致し居り候」という手紙をおくっているが、その日は「私の口はたいしたものです」と語りはじめた。  英国留学のとき、船の甲板で運動会があった。器に水を張ってリンゴをうかべ、それを手を使わずに口でくわえて走り出すという競技である。大西は、自分はその競技で断然優勝したが、翌日の船内新聞に「日本の海軍将校の口は並はずれて大きかった」と出ていたのには憤慨したと語って、一座の爆笑をひきおこした。 「じつに物事の本質をわきまえない記者がいるものです。私がリンゴをくわえるのが巧みなのは、口が大きいからではなくて、これと思ったリンゴをタライの底に抑えつけて捕えるからです」  松見家のひとびとは、結局、見合いに来て芸者遊びをたのしんで帰京する結果になったが、大西の飾り気のない人間に触れて、かえって信頼感をふかめたようだ。  しかし、淑恵夫人のおどろきは、結婚後もしばらく続いている。彼は晩婚の理由を、横須賀航空隊にいるとき、逗子の芸者がある将校の子を産み、それが原因で将校の家庭に紛争がおきたので、自分が芸者に「子どもをつれてやってこい」といい、しばらく子づれの芸者と同居するようになったからだと、おもしろそうに語ってきかせた。  この話に新妻がうろたえたのは当然だが、さらに、ある日、外出先で女学校時代の旧友にあって、大西の傍若無人ぶりを聞かされる。旧友は嘉子が大西の妻になったことを知らず、ひさしぶりだからと自分の家に招じ入れたが、「今夜もどうせ、うちの主人は午前様ですからね」と切り出した。 「この間赴任してきた副長が飲み助で、早く座を立つと怒り出すんですって。家を明ける夜もあるので、理由をきくと、副長が泊まれというので泊まらざるをえなかった、といつもいうのよ」  淑恵がおどろいて、「その副長さんは、なんていう人ですか」と訊ねると、友人は言下に、「大西瀧治郎というひと。なんでも、喧嘩早いので、�喧嘩瀧兵衛�と呼ばれているらしいわ」といったものだ。  そのうち、ついに将校夫人の間で、「夫の遊びを見学する会」が立案され、実行に移された。このあたりから、淑恵は大西の�遊び�の哲学に触れるようになる。一夜、夫婦同伴で市内のキャバレー「日輪」に繰りこんだ。ホステスを呼んで馬鹿話をしていると、大西はいつの間にかホステスの手をにぎり、上手に弄《もてあそ》んでいる。夫人の一人が気をきかせて、大西の隣にすわりこんだ。すると、大西は、しまいまで彼女には一指も触れなかった。  そのあとすぐ、といっても淑恵には新婚一カ月くらいの夜であるが、大西は午前一時ごろ、三人の芸者をひきつれて帰宅した。芸者の一人は、色が浅黒くて目もとの涼しい、いかにも着やせするタイプの女である。大西の好みだったらしく、彼は�ラッキョウ�と綽名をつけて、さかんにからかったものだ。  淑恵はすっかり気鬱になって、大西が、「田丸屋のカキ餅があるだろう、出せ」といったが、聞えないふりをして、台所で洗いものを続けていた。    無原則の思いやり[#「無原則の思いやり」はゴシック体]  その夜、芸者たちが帰ったあと、淑恵が不貞腐れたまま寝ようとすると、大西は「待て。そこにすわれ」といった。それから彼の女房教育がはじまる。 「芸者たちは、好きでああいう商売をやっているのとちがうよ。親のためとか、家のためとか、とにかく本人の意志以外のところで働いているんだ。そういう女にとって、海軍士官の家に連れてこられることは、名誉なんだよ。それなのに、なんで、あんなにプリプリしてみせるのか。人間は相手の気持も汲んでやることが、いちばん、大事なのだ」  大西の私生活のエピソードを集めてみると、社会的に地位の低いものに対する配慮とか思いやりといったものが、ひとつのブロックとなってあらわれる。この種の思いやりは、ほとんど無原則的なものにさえ見える。ところが、そのエピソードの落着先をみると、彼なりの�人生哲学�が顔を出すのである。その評価はあとで述べたい。 「大西瀧治郎伝」の中で、長崎県の柳ヶ瀬吉蔵という人物の回想記がかなり永く紹介されている。それだけ柳ヶ瀬は永い間大西と交渉があったわけだが、二人の出あいはごく単純なもので、大西が佐世保海軍航空隊の飛行隊長をしているとき、柳ヶ瀬が二等水兵で同飛行隊の事務員をしていたというにとどまる。しかも、その間約一年だ。  それから五、六年もたって、柳ヶ瀬は新聞の人事異動欄で、大西大佐が横須賀航空隊の教頭になったのを知り、なつかしさのあまり葉書を書く。それがきっかけで、柳ヶ瀬は大西に呼ばれ、大道商人の足を洗って航空廠飛行実験部につとめるようになり、さらにまた日本飛行機への就職も世話してもらっている。この間にも、柳ヶ瀬の長男が肺炎で重態になったとき、大西夫人が多額の見舞金を持ってきたうえ、大船の日限地蔵尊まで祈願にいってくれたなどのエピソードがあるが、いちばん大西の�人生哲学�を物語っているのは、柳ヶ瀬が大西の面前で岡村海軍少佐から侮辱をうけたときの話である。  昭和初期の不景気で、柳ヶ瀬は航空廠の日給一円六十銭の給料では苦しくなり、再び大西のところへ相談にゆく。折から岡村少佐が来ていて酒を飲んでいたが、最初は、「大西さんはえらい人だから私用はなるべくお頼みしない方がいいと思うがな」と忠告していたのが、酔うほどに飲むほどに、「柳ヶ瀬、貴様は商売なんかしたので、大西さんの地位を利用しようとかかっているんだろう」と目をすえ出した。柳ヶ瀬が抗弁すると、岡村は、「なにを、この野郎」と一升壜をふりあげた。このときまで黙って聞いていた大西が「岡村君。君のいうのは理論だよ。世の中は理論どおりにはゆかないから、柳ヶ瀬君もこうして相談に来ているのだ」と間に入ったので、修羅場は免れたが、柳ヶ瀬は口惜しさのあまり男泣きに泣いたという。  それから数年たって、柳ヶ瀬は大西夫人から�あの夜の大西�の気持を聞かされる。  彼女も面罵《めんば》された柳ヶ瀬があまり気の毒なので、岡村が辞去したあと、「あなたは御自分が面倒を見て居る人が、面前で罵られて居るのに止めもせず、なぜ傍観して居られたのですか、あなたとはその様な薄情な人ですか」とつめよった。すると大西は、「おまえは女だからそのようにいうが、おれは反対に岡村が良いことを言ってくれると、内心岡村君には感謝していたのだ」と答えた。「なぜです?」とききかえすと、大西はこう答えている。 「柳ヶ瀬というヤツは岡村からヤラレタ位で辟易する男ではない。かえって発奮するヤツだ。だから発奮の材料を提供してくれていると思ったから黙って見ていたわけだ。とにかく俺の目が狂っているかどうか、長い目で見てやってほしい」  柳ヶ瀬は、そのあと日本飛行機の台北支所の責任者になっている。敗戦の日、彼は、「玉音放送」を聞いたあと「大西閣下はあるいは自害なさるか」と直感し、事実そのとおりになって大衝撃を受けたと書いている。    「昔の恋人であります」[#「「昔の恋人であります」」はゴシック体]  夫人の回想によると、大西の考えは全部聞かないと理解できない性質のものと思われる。  夏の某日、知人宅にビールを半ダースもってゆくように命じた。夫人が女中に、「ゆきなさい」というと、女中は、「この日盛りにですか?」と尻込みをした。それを見て夫人が、「たいしたことはないじゃないの」というと、大西は、「キク、ゆくことはないよ」と女中に声をかけた。「たいしたことはない、といっているひとに持っていってもらいなさい」  そこで夫人が暑い思いをしてビールを届けると、大西が、「どうやって持っていった?」と訊ねた。 「三本ずつ二箇の包みをつくって両手に提げ、疲れたら通りがかりの家の塀やクズ箱の上において休みました」  夫人の話をきいて大西がいう。 「それだ。それを女中に教えてやれば、自分がゆくことはなかった。自分でやれることを、なぜ他人に教えてやれないのか」  この話は、ゆくりなくも山本五十六大将の、「やってみせ、いってきかせて、させてみて」という指導法と一致していておもしろい。  女中について、もうひとつエピソードがある。漢口駐留から帰還したとき、大西はいつになく土産物を買ってきた。カバンの中は、エメラルドの指輪、服地、黒の帯地である。 「奥さんをよくお守りしましたか。大事にしていましたか」  まず、女中に訊ねた。女中は十五歳になる。幼く頷くと、大西は、「よし、よし、ではご褒美にこれをあげよう」と、エメラルドの指輪や服地を与えはじめた。夫人が傍から、「この子にはまだ早すぎるようですし、高価にすぎます」と袖をひいたが、大西は一向に肯《き》かなかった。そして、最後に黒の帯地を出して夫人に与えた。 「あら、黒ですか」  夫人がいうと、大西は、 「黒は、いくつになっても着られるんや」  けろりとした顔である。後刻、夫人がもう一度、大西に、「いくらなんでも、十五の子にすぎたお土産ではありませんか」と鼻を鳴らした。これに対して、大西がいう。 「おまえさんはバカですね。まだ若すぎるほど若いから、先にああいうものをあげて、娘心を喜ばせるんですよ」  大西が最前線に出ているとき、従兵を呼び捨てにせず「さん」づけで呼んだことは前にも書いた。従兵だった山本はそういう大西を「磁石のように、こちらが惹きつけられるひとだった」と回想している。  このようなエピソードに見られるのは、男性支配型の価値観である。大西にあっては�男の価値�は絶対といってよい。  淑恵は婦人雑誌の「夫の操縦法」という記事を読み、「ヤキモチは本気で焼け」とか「夫は坊ちゃんが大きくなったもの」とか、納得のゆく項目に○印を打っておいたことがある。なにかのきっかけで、それが大西の眼にとまった。 「おまえさんは心得違いをしているよ」と彼は妻にいった。 「俺はおおぜいの兵を動かす人間だ。その俺が妻に操縦されると思うのがどうかしています。ね、そうじゃないかね」  いちいち、もっともである。ところが、性格や行動が言葉どおりにスクェアなものかというと、その反対である。酒を飲めば乱暴狼藉にわたることもあるし、結婚後もおおっぴらに芸者とたわむれている。観艦式のある数日前、淑恵の母が訪問すると、大西は美しい芸者に切符をねだられているところだった。彼は、義母の顔をみると、臆する色もなく「あ、ご紹介します。こいつは、私の昔の恋人であります」と紹介したものだ。    男の虚無感[#「男の虚無感」はゴシック体]  天衣無縫とか、器が大きいとかの表現はあるが、私には大西に男の虚無感が感じられる。男性支配を先入主として持っている男が感じる「もののあわれ」が大西にある。  彼は、花の好きな男であった。どういうわけか、月見草が好きで、それを口に出していうこともあった。  ある日、妻の淑恵が鉢植えの月見草を買ってきて、庭に移した。地味が適していたのか、それが叢《くさむら》をつくるくらいに繁茂し、茎が高く伸びて、大輪の花を咲かせた。  大西は、食事がおわると、薄明の庭に降りて、月見草の花がひらくのを待った。 「さあ、咲くぞ、咲くぞ」  彼は、花の前に中腰になって大きな声を出した。家じゅうのもの、来客があればその来客もまじって、庭にかけおりる。  蜩《ひぐらし》が熄《や》むと、月見草はゆっくりと咲きはじめる。最初、蕚《がく》がぐっと反《そ》って外側にはぜてゆく。すると、花びらが薄黄色の扉をひらくように、くるっとまわりながらひろがっていった。大西は、息をころして花がひらきおわるのを見つめ、やがて、仄《ほの》かな花の色に目をあてて呟いた。 「これを見ていると、宇宙の大自然というものを感ずるんや。見てみい、こんなに可憐で幽《かす》かな花にも、大自然の法則というものがかよっているんや。人間はこの法則にはさからえんのや」  この東洋的諦観が、彼のパトスの軸になっている。  前にも紹介したが、大正二年、大西は母を失ったとき、郷里にいる兄に手紙を書いているが、その中に「悲しみても余りあれど、今に及びて何をか言はむ。只あきらめが大切なり。又一度思ひをひるがえして、宇宙を大観せんか、生必ずしも喜ぶに足らず、死亦悲しむに足らず、人生は古人の言へるが如く、宇宙なる大海に生ぜし水泡の如し」という文句がある。  彼は、また、文中でいう。 「我等は、永遠に消えざらん水泡たることを欲す。この事果して得べきや否や、余は可と言はむ。仏教ある所釈迦は生くるなり。耶蘇教ある所耶蘇は生くるなり。実に永生の道は、其の美名を残し、其の主義人格を残すにあり。母上死し給へりと雖《いえど》も、母上は母上の歎美者の中に生き給ふなり。少くとも、幼より日夜薫陶を受けし、否母上に其の性格をつくられし我等同胞に於て、母上は生き給へるなり」  大西は、存在に対する諦観を以て月見草に触れ、母の死に対向し、社会的地位の低いものに接している。その諦観の支点になっているものは、男性としての自覚である。もちろん、海軍の航空将校として合理的|思惟《しい》の方法を身につけ、論理的帰結を求めるような習慣もそなえている。しかし、それは現実的処理が要求される場合に発揮され、効果が不可視的な局面では輪廻観が出てくるのである。  彼は、終戦の前日、本土徹底抗戦を叫んで敗れた。そのため、いまでも「気違いじみた海軍首脳の一人」という印象で受けとられているが、彼は山本五十六大将の「真珠湾攻撃計画」に反対し、大艦巨砲主義を排して航空優先主義を主張し続けているのだ。    花は心で愛する[#「花は心で愛する」はゴシック体]  論理的帰結だけで思惟を完結させるのであれば、帰結の終点に「白旗を掲げて投降」という項目が插入されてしかるべきである。最後の御前会議における�和平決定�はその態度を採用した。しかし、それでは心情的にのみ動員してきた国民に対して説明がつかない。そこで重臣たちは、国家の論理を貫徹するために「国体護持」という心情をもち出したのだ。大西の徹底抗戦思想は、そのような論理と心情の二重構造に抗議をし、「国体護持」を国民が行為として体現することを主張したのだと、私は見ている。  しかし、国家の論理と国体の心情とは、まるで寄木細工のように、真夏の日の下で、重ねあわされた。論理としての「国家」はすでに破産しているのに、心情としての「国体」で救われ、浮揚したのである。この状況が「敗戦」を「終戦」といいかえさせ、「占領軍」を「駐留軍」といいかえさせる心理的土壌をつくったのである。そして、この心理的土壌の上に経済的繁栄が築かれ、日本はいつの間にか何事もなかったような顔に立ち戻ってしまった。敗戦以来、ただの一度も新しい�国家目標�を求めることをしなかったのも、国家という論理の破綻《はたん》を国体という心情で救済し、隠蔽しおおせたからではないか。  天皇・皇后両陛下がヨーロッパを訪問された際、イギリスやオランダでいくつかの�訪欧反対�の事件があったが、ヨーロッパ人の知的構造からみれば、日本は太平洋戦争の論理的帰結をおわっていないとの判断が生き続けているわけである。日本人は、彼らの態度に「おとなげない」という感覚で接したが、彼らはそういう日本人を「話しあえない」という判断で遇しているのである。  大西中将の本土徹底抗戦の思想は後で触れるとして、彼ほどの論理型将校が最後にはその対極点に立ってしまうのは、「特別攻撃隊」という死を客観に委ねた行為を具体化させることにより、諦観という哲学的態度も政治的プログラムに乗せたためなのである。  花の好きだった大西に、もう一つの插話がある。軍需省の航空兵器総局総務局長をしていた頃、彼の主管で、動員学徒に道具の種類・名称・その使用法を教えるための教育映画をつくった。その製作責任者である増谷麟が、東宝|砧《きぬた》撮影所から遊びにきた。その折、大西の�花好き�が話題になった。  昭和十四年、大西が漢口に駐在している頃、夫人が「なにかほしいものがあったらいって下さい」と手紙を出すと、大西から「なにもほしいものはないが、日本の花が見たい」といってきた。そこで、夫人は鉢植えの海棠《かいどう》の花を人にことづけて送っている。 「へえ。あんたが花好きとはねえ。その顔からは、花好きとは思えないがねえ」  増谷がひやかすと、大西はいささかムッとした調子でいいかえした。 「花なんて顔で愛するものではない。心で愛するのだ。できることなら、僕のハートを截《た》ち割って、君に見せてあげたい」  これには増谷も鼻白んで「気に触ったら許してほしい」と取りなしたそうだが、大西には磊落《らいらく》な風貌を語るエピソードの中に、突如として、心を踏まれたように怒り出す場面があらわれる。それは、彼が大切にしているものをからかわれたり、ゆさぶられたりするときに、つむじ風のように起る反応だ。  彼は、たしかに�海軍の三音痴�のひとりで、淑恵と結婚した昭和三年、つまり三十八歳で淑恵の姉から「雀の学校」という童謡を習ったという珍記録がある。例の「ちいちいぱっぱ」であるが、習ったがついに正確に覚えなかったというのだから、ほんとうの音痴であろう。    官僚制への批判[#「官僚制への批判」はゴシック体]  ところが、芝居の方はかなり好きで、佐世保や横須賀に流れてくる入場料十銭均一の田舎芝居でも観《み》に行った。ときには膝をのり出して舞台を見つめていたというからおもしろい。それだけに役者の声色《こわいろ》がうまく、ことに市村羽左衛門の真似はかなり堂に入っていた。宴会で興到ると、どてらの上に芸者の黒紋付を羽織り、五分刈り頭を紫の紐でゆわえて、蛇の目のから傘を斜にひらき、八字を踏んで、「春のながめは価千両とはチィせえ、チィせえ」とやってみせるのである。彼がそういいながら、大きな目玉をくるくるとまわして寄せると、それはそれで見られたもののひとつだったそうだ。この「チィせえ、チィせえ」を、彼は比島方面の第一航空艦隊司令長官として派遣される送別会の席上でやっている。銀座の数寄屋橋にあった料亭で、軍需省につとめる陸海の将星が綺羅星の如く居流れる面前だ。このときの「チィせえ、チィせえ」が、自分の受けた任務をいったものか、海軍首脳部への批判なのか、ハッキリしていないが、もうひとつ、海軍の中にある官僚制への批判でもあるという。  大西は宴会というとこの芸を出していたが、枝原「陸奥」艦長の家に夫婦同伴の招待を受けたとき、酒が出て「なにか踊れ」ということになった。航空隊司令大西少佐は、なにひとつ、踊りを知らない。結局、踊りのうまい将校に教わって、円陣に加わった。ところが手拍子も足拍子もひとつひとつ違う。夫人たちはそれを見て腹を抱えて笑った。  踊りがすんで、座席に戻ってくると、大西は妻に「どうだった?」と訊ねた。 「私、悲しかったわ」  淑恵がいうと、大西の顔色がすっと変った。淑恵は「あ、怒る」と直感した。 「でも、あなたはデクノボーじゃないわ。ちょっと習えば、さっと踊ってゆけるんだから、芸術的素質があるのよ」 「そうか」  大西はすぐ嬉しそうな顔をした。「おまえにも、それがわかるんだから、芸術的素質があるんだね」  大西が本心から喜んだのか、妻がひとを傷つけまいという配慮を見せたのが嬉しかったのか、とにかく「今夜は神楽坂で泊ろうよ」といった。 「おまえの家は、教育者の家庭だから、どうも窮屈でいけない」 「いいわよ」  淑恵は大西を促して省線電車を飯田橋で降りると、ぐるぐる廻り道をして、実家に連れていった。大西は玄関の前に立つと、 「あれ、ここはたしかに見たことのある待合だが、なんといったかな。おまえ、こんな家に来たことがあるのかい」  と、満更でもない顔をした。そのうち、淑恵の声で母が出てきた。大西は「ただいまあ」と大きな声で挨拶すると、妻のいたずらを語って大いに笑った。    「正しい人間になるんだよ」[#「「正しい人間になるんだよ」」はゴシック体]  彼は、ごくあたりまえな庶民生活の感覚しかもっていない。喜怒哀楽の振幅は大きいが、その原因は庶民の次元にある。物質的にも、日本に一本しかないという銘刀を持っていたわけではない。大きな庭石を据えていたわけでもない。家は、将官になるまで、借家住まいである。「君子は辺幅を飾らず」の典型である。「常陸丸」の捜索にいって、日本郵船から感謝の金時計を貰うと、裏蓋についている会社名を削って古物屋に売り、それで宴会をやるような男でもある。  あるとき、アパート住まいをしている大西に、「海軍中佐にもなって、こんなところに住んでいるなんて、みっともないですよ」と忠告するひとがいた。 「じょう談いうなよ」と大西は抗弁した。 「外国ではこのアパート生活が時代の先端をいっているんだ。キミ、海軍将校はつねに時代感覚に生きていなければならん」  借家が多かったのは、ひとつには転勤が激しかったことにもよる。さて、引越しとなると、大西のやることがおもしろい。  畳屋を入れて住んでいた家の畳をすべてとりかえ、襖や障子もぜんぶ張り替えるのである。つまり、家の中をほとんど真新しくして、大西は引越先へ出てゆくのだ。 「立つ鳥、あとを濁さず、というでしょ。それが私の家の家風ですよ」  彼は妻にそういってきかせている。ところが、引越しそのものは手伝わない。「家におりますと、お邪魔でしょうから、ひっこんでおります」といい、さっさと航空隊に出勤してしまうのだ。このあたりは、亭主関白の家に共通の現象である。のちに源田実中佐も「大西さんの教訓だから」といって、引越しを手伝わなくなったという。こんなふうだから家事には一切かまわない。妻がどんな柄の着物を着ていたかも覚えていない。  航空隊から帰ると、庭から入ってきて、縁側に腰かけて庭を眺めながら「おい。腹がへったぞ、早くメシにしてくれ」と叫ぶのである。仕度を待つ間に縁側にどたりと寝ころんで、健康なイビキをかき出すこともしばしばだ。 「海軍さんが縁側で寝るなんておかしいわ」  淑恵がそういうと、大西は「そりゃちがうよ」と教えた。 「海軍さんは、どこでも寝られる、なんでも食べられる、いつでも考えている、これが海軍さんですよ」  この大西が、妻にはじめて羽織を買ってやったことがある。「どうだ、よいものだろう」と得意気で、妻にそれを着せて外出した。ところが波止場で船を見ていると、小雨がぱらつき出した。すると大西は、「おい、羽織が濡れてしまうじゃないか」と強引にぬがせ、懐に押しこんで一目散に駈け出したものである。  以上のように、大西の私生活を垣間見るような物語をあたってゆくと、そこには�勇将��仁将�の面影はほとんど見られない。ごく平凡で、飾り気のない、真摯《しんし》な一市井人のイメージがうかびあがる。どんな客にでも、夏なら浴衣を着て兵児帯をぐるぐる巻きにした恰好で応対に出る、一個の日本男子の姿がある。将官になって、自宅に車が迎えにくるようになった。戦時中のことだから、町内では一種のスターになる。子どもたちが、おおぜい集ってくる。毎朝、三十人くらいだという。大西は、その子どもたちの頭を撫でながらひとりひとりに「正しい人間になるんだよ」といった。子どもの中のひとりが、その言葉を聞いて「このおじちゃんはおもしろいことをいう」と、目を輝やかした。 「どうして?」大西が訊ねる。子どもは大西の笑顔につりこまれるように答える。 「たいていの人は�偉い人�になるんだよ、というのに、おじちゃんだけは�正しい人�になれ、というから」  大西は頷いていった。 「そうさ。正しい人になれば、自然に、偉い人になるんだよ。正しい人は自分でなれるが、偉い人は他人がしてくれるものさ」    列外に出なかった人物[#「列外に出なかった人物」はゴシック体]  大西自身に即していえば、彼は「列外に出なかった人物」という評価がある。「列外に出なかった」は「主流にいた」とはすこし違うが、消極的な意味では「閑職につかなかった」ということである。  中島正少佐によると「列外に出なかったものは、たとえ艦とともに沈んでも満足するものだ」という。これは、そのとおりであろう。大西が特攻を「統率の外道」としながらもこれを敢行できたのは、「いま、死なせるのも大悲」という考えが、日本人の思惟の「列外に出なかった」からである。それを支えていたのが、大西の東洋的諦観である。あるいは、第一航空艦隊司令長官としての役割であり、海軍中将としての責任感である。  大西は、辺幅を飾らない、真摯な一市井人の感覚をもっていたから、特攻に踏み切ることができたのだと思う。真面目だから踏み切ったといえば逆説のようにきこえるかもしれないが、「列外に出ない」人物の真面目さが発揮されたといえるのではないか。  このタイプとは全く逆に、「列外に出る」ことによって、より真摯に生きようとする人物もある。「列内」にいることによって喪《うしな》われる人間的価値を見つめ、「列外にある」ことによってそれを守ろうとするのである。このタイプから見れば「列内人間」は�俗物�になるわけだ。  特攻機に搭乗してアメリカの艦船に突入していった若い隊員たちも、また、当時の日本の青年として、「列外」に出ていなかった。筋骨薄弱や病気のゆえをもって丙種に指定されたものが「列外」にあって、軍隊の醜悪さを嘲笑し、特攻の無意味さを語りあっていたのである。そこで、「列外に出なかった」人々が、自分が列内にいることの意味を確かめうる哲学を持っていたかどうか、こういう問題が残るわけである。  大西中将は、その検証の哲学のかわりに東洋的諦観をもっていたのだ。「特攻」の論理は輪廻の思想にリンクされたのである。しかも、その論理は「国体護持」の心情の壁につきあたって、ついに貫徹することができなかった、といってよいであろう。  私は、「特攻」を日本人の特有の精神的状況の所産と解釈してしまうことに疑問をもっている。戦後、この解釈が唯一絶対のものとなったのはいうまでもない。日本人に特有の精神状況だから、「特攻」を非とするものはそれを産んだ�皇国教育�を罵倒し、「特攻」を是とするものは日本精神の華と評価するのである。人間の精神行為がそのように、正反対の評価を産んでよいものだろうか。 「特攻」のような行為は、ある種の特有な精神状況の所産ではなく、組織なり集団の中で「列内」にいるものが、みずからの位置の思想的検討を停滞させたときに起るのではないかと思う。あえていえば思想の思想による創造的破壊のエネルギーを欠いたとき、「列内」の思想は心情や宿命観に、根插しの土壌を求めるようになる。  社会主義国でも、おおくの人命を救うために、ひとりの人間が爆薬を抱いて死んだ、という物語が伝えられている。彼は「人民の英雄」であり「人民の華」である。彼自身も、「人民民主主義」の「列内」にいるかぎり、自決を惜しまなかったであろう。個と全体の関係の止揚を、「死」をもって完成するという哲学もありうるであろう。しかし、ひとりの人間が死んだことは事実なのである。彼は「人民民主主義」のために死に、特攻隊員は「美《う》まし山河」「悠久の大義」のために死んだ。後者を�皇国教育のあわれな所産�とし�軍国主義のための犬死�とするのは簡単である。しかし、特攻隊員の中には「皇国」「大義」という言葉をつかいながら、じつは「美まし山河」や「母と妹」のために死んでいるものがある。この死に対しては、単純な政治的解釈では救いきれないではないか。  問題は、「列内」の思想が自己検討の歯止めを放棄して、自転運動をはじめることにあると、私は思う。戦後の産業公害や環境破壊も、「技術革新」を先頭に押し立てた「列内」の思想の必然的帰結ではなかったか。その思想にむかって、「人間の回復」を要請しても、自転運動はそれをハネとばしてしまう。ある経営者は「コンピューターに習熟できないひとは、これからアフリカにでも住んでもらう」といったものだ。これは、あきらかにコンピューターという価値(たいした価値ではないのに)が、「列内」の思想となっている証拠である。  戦後の「列内」思想が、公害や環境破壊をもたらし、それにぶつかって反省をはじめたのは結構だが、その反省が「人間尊重」とか「人間性の回復」というような、途方もない大テーマを援用していることに、私は寒気を感じる。 「人間尊重」といい、「人間性の回復」というが、いったい「人間」とはなにか、「人間性」とはなにか、その概念規定もきまっていなければ、哲学的にも捉えられてはいないのである。「人間」はいまだに「この不確かなもの」という認識でしかない。「人間性」は「人間以外の動物には見られない精神行為」でしかない。たかが産業ではないか。芸術とも宗教とも無縁な、石油とガラスとコンクリートと蛋白質と鉱物を扱っているところが、みずからの「列内」思想の破綻に「人間性」などという大それた価値目的をもってくること、そこに戦後日本の思想的悲劇がある。 「人間尊重」は戦後社会の「悠久の大義」なのだ。「産業優先」という思惟構造の論理的決着をつけないで「人間尊重」という「悠久の大義」を持ち出しているにすぎない。  海軍軍令部次長・大西中将が徹底抗戦を叫んだのも、戦争の決着を「国体護持」という心情にヘッジしようとした重臣たちへの抵抗ではなかったか。彼は、そのときから「列外」へ出されてゆくのである……。 [#改ページ]    第 十 章    米内一流の�政治�[#「米内一流の�政治�」はゴシック体]  鈴木貫太郎内閣が成立したのが昭和二十年四月七日で、大西中将が小沢治三郎中将の後を襲い、軍令部次長に親補されたのが四月十九日である。  総長には連合艦隊司令長官だった豊田副武、豊田の後任は小沢治三郎がすわった。  矢次一夫の回想によれば、大西を台湾から呼び戻したのは岡田啓介大将だというが、これには米内海相の考えも充分に加わっているようである。  鈴木内閣が発足した当時、海軍大臣は米内光政、次官は井上成美、軍令部総長は及川古志郎、次長は小沢という顔触れであった。  次官の井上、次長の小沢。ともに米内の終戦思想の近辺にある人物である。少なくとも、大西のように�徹底抗戦�を叫び続けるような立場にはいない。  太平洋戦争がはじまったとき、井上は第四航空艦隊司令長官としてマリアナ群島の付近にあった。「真珠湾奇襲成功」の報が入って、幕僚たちが乾杯のビールをぬき、井上に「おめでとうございます」とコップをさし出すと、彼は「ばかもの!」とひとことだけいって、幕僚を睨みかえしたという。山本五十六大将と同様に、井上は�日米開戦�の前途を憂えていたわけである。  小沢中将の位置は、高木惣吉の「私観太平洋戦争」に読みとることができる。 「頼りにした井上次官は軍事参議官になり、小沢軍令部次長も海軍総隊長官に転出されて、行詰ったこの局面を打開する対策について、心から胸襟を開いて相談する人を近くにもたなかった。私は小沢中将を訪ねて作戦上の見地から、何とか有力な和平の糸口を探りだせないものかと、日吉の司令部を訪ねたところ、長官はあいにく九州基地視察のため出張不在、落胆して重い足どりで焼跡の海軍省の照りかえす灰燼を踏んで、大臣室から当てもなく、目黒に引返そうと歩いていた」  このような「和平派」の井上と小沢を退け、それに代って大西瀧治郎という「抗戦派」を登場させたのは、米内一流の�政治�である。いや、米内光政に限ったことではない。近衛内閣が「陸軍を抑える」ために東条英機中将を陸相に起用し、鈴木内閣も同じ理由で阿南惟幾を陸相に迎えたことを考えると、これは日本の政治における�一方程式�ということができる。  簡単明瞭なことは、米内は戦争を継続するために大西を台湾から呼んだのではなく、和平工作を進めるために呼びかえしたのである。このことは、戦後「東京裁判」の法廷で、豊田副武が「大西の起用は海軍部内の主戦派の不満を和《やわ》らげるためだ」と証言してもいるのである。  たしかに、大西の帰任によって、軍令部内の「主戦派」は一応満足した。「大西さんならやってくれるだろう」と「玉砕」とか「徹底抗戦」という心情を大西に託するようになった。  米内は「緩衝装置」としての大西を見出すことに成功した。それが「政治」というものであろう。この「緩衝装置」は、徹底抗戦だの本土玉砕だのと、勇ましいことをいってくれればくれるほど、米内にとっては好ましいのである。    眼下に荒々しい爆撃の跡[#「眼下に荒々しい爆撃の跡」はゴシック体]  しかし、大西は自分自身が「緩衝装置」であることに気がつかなかったであろうか。多くの文献や関係者の談話の中には、彼の自覚を匂わせるものは、なにひとつ伝わっていない。私自身の感想からいえば、あれほど西郷隆盛に私淑した男である。「西郷さんが城山に籠ったような気持」くらいのことはいっているだろうと思ったが、ついにそうした意味の言葉を発見することはできなかった。  それなら、大西が絵に描いたような�勇将�もしくは�暴将�で、真正直に「本土抗戦」を主張してやまなかったか、というと、これまた軍令部次長という位置から見て、全面的に肯定することはできない。もちろん、大西が極めつきの�暴将�で、米内からコケ扱いされているとも知らず、眼を剥き、口角泡を飛ばして、終戦期の東京で奔走した方が、史談としては興味深くなるであろう。しかし、人間をひとつの類型として語ることは、時代を語ったことにはならない。歴史とか時代とかは、類型ではなく典型で語られるべきである。  軍令部の作戦課員であった土肥一夫中佐は「海軍が�もはや、これまで�と思ったのはサイパン失陥のときだった」と語っている。このとき、土肥の同僚だった源田実中佐は「海軍はありったけの航空兵力をかき集め、全機をサイパン奪回に投入すべきだ」と、声を大にしていたという。そのような判断が成り立つのは軍令部が情報の集中機関であったからだ。大西はそこの次長になっている。果して、日本の陸海軍にどれほどの�戦力�が残されているか、それがどのくらい続くのか、一目瞭然であったはずだ。  大西中将は、軍令部に出仕するため台湾を離れたあと、いったん上海に飛び、上海から大村に進入するところを空襲で妨げられ、米子飛行場に着陸、皆生《かいけ》温泉に一泊したあと、米子から厚木まで飛んでいる。このとき、乗用機は、アメリカ空軍の艦載機と遭遇するのを避けて裏日本をかすめて飛んだ。それを知った大西は、操縦士に「名古屋上空を飛んでくれ」と指令した。「危険であります」と機長がいうと、「かまわぬ。名古屋上空から三菱重工と日本軽金属を見るのだ」と、押しかぶせるようにいう。  眼下に、爆撃の跡を荒々しく見せる風景がひろがった。大西は窓に顔をつけて「ほう」とか「うむ」とかいいながら、工場の被災程度を見つめていた。副官の門司大尉は、大西の表情にさかんな計算が走っているのを見てとった。    常軌を逸した頭脳[#「常軌を逸した頭脳」はゴシック体]  彼は、東京に着任するとそうそうに児玉誉士夫を呼びつけて「銅をなんとかしろ」といっている。「航空魚雷の精度が落ちているんや。電気回路が生命なんやが、銅が不足しておるのでアルミニウムで間にあわせている。それが原因やね」 「銅ですか、銅なんかお安いご用です」  児玉が答えると、大西は嬉しそうな顔をして「たのむよ」といった。 「なにしろ、若いものが一人一人生命をかけている攻撃に部分品が悪いとあっちゃ、なんとも申しわけないからねぇ」  しかし、考えてみると、軍令部次長が民間人に銅の手当を発注など、まったくもって、おかしな話である。銅の問題は、軍需省航空兵器総局の管轄で、軍令部とは関係がない。しかし、児玉によると「終戦間際まで、資材をめぐる陸海軍の対立は続き、そのうえ、海軍部内にも艦船主義と航空主義が対立していたので、銅を貰いにいっても必要量の十六分の一しか割り当てられなかった」という。  大西にもそれくらいのことはわかっていたろう。わかっていたからこそ、児玉機関を動かそうとしたわけである。 「だが、銅はどこにあるのかね」 「閣下の足元にあるじゃありませんか。被災地の電線ですよ。焼土に埋っている。これは純度九九%の電気銅です。人手をあつめて、こいつを掘ればいい」  児玉は、大西中将の妻の父が順天中学の校長であったことを奇貨とし、同校の中学生を動員してもらって、焼跡から電線を集める作業をはじめた。また、焼け残った電柱に「銅をご持参の方には公定価格の三倍で買い受けます」という貼り紙を貼りめぐらした。その結果、一カ月で数千トンの電気銅を手に入れることができたという。  大西が政治の機密を知る立場にあったことは、軍令部次長という位置を考えれば、当然のことである。そのうえ彼は航空兵器にかけては専門的知識をもっている。電気銅の不足という細かいことまで知っている。  米内海相の�大西起用�を政治というなら、大西が戦力不足を承知のうえで�主戦論�の代表として軍令部にあったことは、これまた大西の�政治�といってもよいであろう。  要するに、戦争終結の過程をどうとるかの相違である。  米内は鈴木内閣の�列内�に入っている。主として外交手段によって戦争終結を図ろうとしている。大西は�主戦論者�として、内閣の思想からは�列外�にある。本土決戦を挑み、アメリカ軍に大出血を強要して、その流血の上に戦争終結の機をつかもうと考えている。  特攻を繰り出した思想が「敵空母の甲板を叩く」から「若者に死地を与える」にかわり、さらに「勝たないまでも負けない」に発展したことはまえにのべた。敗戦の様相が明らかになり、ポツダム宣言受諾へのテンポが早まるにつれ、大西は「日本国民が、なお二千万人ほど戦死するほどの一戦を試みよう」という言葉を口にしている。いわば、日本列島そのものを�特攻�にしようというわけだ。このような発言に対して、和平派はもちろん、軍部内でも「常軌を逸した変態的頭脳」という評価が立っている。無理からぬことである。  しかし、大西は正気であった。正気で�狂気�をいい続けていた。なぜなら、和平派が腐心したのは「国体の護持」であったが、大西の思想には「国家と民族」があったからだと思う。  これは、大西が天皇を蔑《ないがし》ろにしたということではない。が、彼にあっては、「国体」よりも「国家」の方が明瞭な概念になっていたと思われる。このように推論するのは、大西は特別攻撃隊を繰り出すことによって、彼自身の中に「国家」の概念を鮮明にしたと考えられるからだ。彼にとっての「国家」は、「零戦」や「月光」に乗って発進していった若いパイロットたちの、血と死によって支えられている。「国家」は法律上の、あるいは政治哲学上の概念ではなく、特別攻撃隊という具体的事実を触媒剤として成立する、具体的な概念なのである。    「軍人の責任であります」[#「「軍人の責任であります」」はゴシック体]  大西の帰京は、しばらくの間、秘匿《ひとく》されていたようである。  四月二十三日の朝、児玉誉士夫が大西夫人をたずねた。夫人は空襲で家を焼かれ、焼跡の防空壕に住んでいた。 「奥さん、軍服はないかね」  児玉がそれとなく聞くふうなので、夫人は「あら、大西が帰ってきているんですか?」と訊ねかえしている。児玉は「うん、いや」と曖昧な答え方をし、大西の帰京には一言も触れなかった。彼が大西の軍服を探しにきたのは、海軍軍令部次長として参内するために必要だったからである。  その後、大西が防空壕に夫人を訪ねたのは、帰京後一週間たってからである。  焼跡に立った大西を見て、近所の人たちが集ってくると、彼は夫人に「おい、氷砂糖を届けてくれた人がいるはずだ。それをいま出しなさい」といった。夫人が壕内に戻って氷砂糖の袋を持ってくると、大西のまわりに人垣が出来ていて、「ご無事でなによりでした」と泣いている人が多かった。 「さあ、皆さん。いまから氷砂糖を配給しますが、どう頒《わ》けても不公平になりますから、皆さんの掌でひと握りずつつかんで下さい」  大西は、そういうと、紙の上に氷砂糖の山をつかんで、人々の前をまわった。大きい掌や小さい掌が、さまざまな表情で氷砂糖の半透明な山に伸び、ひと握りずつ持ち去った。  幼児を背負っている主婦がいた。彼女がひとつかみすると、大西が「赤ちゃんも、どうぞ」といった。 「赤ちゃんの掌では一つか二つよ。不公平だわ。お母さんの掌にしてあげましょうよ」  妻の淑恵がいうと、大西は「いや、いけません」と首を振った。 「ひと握りずつだから公平なんです。掌の大小をいったらキリがありません」  最後に、大西が掌をぐいとひろげて、氷砂糖の山をつかんだ。彼は砂糖をつかんだままの掌で幼児の前にくると、「ハイ、これはおじさんの贈りものです」と、小さな顔の前に突き出した。人垣から拍手がおこった。  大西は、円陣の中央に立つと、ぐるりと人垣を見まわして、いった。 「私は軍人として支那大陸ほか外地を攻撃し、爆弾をおとして、建物を焼いてきました。ですから、敵の空襲をうけて、ごらんのとおり、家を焼かれるのは当然であります。しかし、みなさんはなにもしないのに、永年住み馴れた家を焼かれておしまいになった。これは、私ども軍人の責任であります。本当に申しわけありません」  深々と頭を下げた。彼が、ここで「軍人」と「民衆」をわけていることは、きわめて意味深い。「軍人」という意識は敗戦への過程でさらに強化され、「われわれは、まだ、力を出し切っていない」という考えに発展する。これが「本土徹底抗戦論」の原点になるのである。  そしてその発展の発条《ばね》として、「若い特攻隊員が死んでいったのに」という、具体的事実に根ざす感情があるのだ。  大西は帰京後軍令部次長の官舎に住んだが、八月十六日の朝に自決するまで、ついに妻と同居しなかった。淑恵は、やがて壕舎生活から児玉誉士夫の家にひきとられ、ここに二カ月住んで、それから東宝映画の増谷麟の家に厄介になっている。    国家あっての天皇[#「国家あっての天皇」はゴシック体]  あるとき、妻が身辺の整理を案じて、「私も官舎に住みましょうか」と申し出た。すると大西は「それはいかん」と、きっぱりとことわった。 「平時なら一緒に住んでもらっても、いいんだがな。いまはそんな時ではない。それに、軍人ではない家のひとも、焼け出されて、親子がちりぢりになって暮しているじゃないか。まして、この俺に妻とともに住むようなことができるか」  そういってから、彼は、眼を宙にすえて、ひとりごとのように呟いた。 「こんどの戦争だって、はっきりはいえないが、敗けるかもしれんしな。戦国時代には、どこの領主もみずから出陣して陣頭に立っておるよ。日露戦争のときも、明治大帝は広島の大本営にお出ましになり、親しく戦局をみそなわされている。それがいま、今上陸下は女官に囲まれて、今日なお家庭的な生活を営まれている。ここのところは、ひとつ陛下ご自身にお出ましになってもらわんと困るのだがなあ」  私は、大西夫人から懐旧談の一コマとしてこの言葉を聞いたとき、大西の決戦思想が鮮明になった感を受けた。  比較したい文章がある。五月二十五日、夜半の大空襲によって、宮城および大宮御所が炎上したそのときの鈴木貫太郎首相の姿を「鈴木貫太郎伝」の筆者はつぎのように伝えている。 「鈴木は宮城炎上の報告を受けると、迫水を伴って官邸の屋上にのぼり、紅い焔を吹いている宮城を遙拝して、涙で頬を濡らしながら、いつまでもいつまでも低頭していた。迫水はその姿を、表現する言葉を知らぬほど尊いものであったと語っている」(注、迫水は内閣書記官長迫水久常のこと)  鈴木は、皇宮炎上の翌日、「昨夜より今朝にかけての敵機の来襲に因《よ》り宮城並に大宮御所が炎上致しましたことは、唯々|恐懼《きようく》の至りに堪えぬ所であります」という「鈴木首相謹話」を発表している。これは首相として通例のことであろうから一応|措《お》くとして、鈴木が「頬を濡らして」炎上する皇居を見ていたのに対して、大西が「女官に囲まれた家庭的雰囲気からのお出まし」を口にしたのは、いかにも対照的である。  鈴木にあっては「天皇あっての国家」であり、大西にあっては「国家あっての天皇」ということになるであろう。  つまり、天皇を護持するためにも、国家は戦争による決着をつけるべきだ、という考えである。クラウゼヴィッツの言葉を借りるまでもなく、「戦争は最高の政治手段」である。大西はその原則に立っている。そのところが鮮明である。  そして、彼にあっては、「国家」はまだ充分に戦っていないという判断がある。その判断のモノサシになっているのは、特攻隊員の血と死である。それは、彼の皮膚感覚にすらなっている。  児玉の輩下にあった吉田彦太郎が、大西の身を案じて、「週に一度は奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と申し入れたことがある。 「そんなこと、いってくれるな」と大西は言下にことわった。 「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。六百十四人もだ」  大西は、はっきりと「六百十四人だ。俺と握手していったのが六百十四人いるんだ」といった。それから眼にいっぱいの涙をためた。 「君、そんなこというもんだから、いま、若い顔が浮んでくるじゃないか。俺はなあ、こんなに頭を使って、よく気が狂わんものだと思うことがある。しかし、これは若いひとと握手したとき、その熱い血が俺につたわって、俺を守護してくれているんだ、と思わざるをえないよ」  彼は、そういってから、すこし間をおいて、妻の淑恵に「家庭料理は食えないよ。若いひとに気の毒だものな」と、もう一度、念を押すようにいった。    天一号作戦による特攻[#「天一号作戦による特攻」はゴシック体]  戦史の上から見れば、特別攻撃隊の発進に踏み切ったのは、たしかに大西瀧治郎中将そのひとである。しかし、命令者の位置にいて、特攻隊発進を命令したものとなれば、寺岡謹平中将も豊田副武大将も、その名が記録に残っている。  豊田大将は連合艦隊司令長官として、米軍の沖縄上陸作戦が開始されるとすぐ、四月六日「天一号作戦」(三・二五発令)による「菊水一号作戦」を発動した。これは航空総攻撃を内容としていたが、水上部隊もこれに策応して沖縄に突入させることに急遽きまった。六万四千トンの戦艦「大和」を先頭に巡洋艦「矢矧《やはぎ》」など八隻の艦船による「艦隊特攻」である。この特攻艦隊は、スプルーアンスの指揮する機動隊に捕捉され、戦爆連合三百機の攻撃をかけられて、鬼界ヶ島付近の海底に叩きこまれる結果となった。  宇垣纒中将が「戦藻録」に書いている。 「今次の発令は全く急突にして、如何ともなし難く、僅かに直衛戦闘機を以て、これに策応するほかなかりしなり。全軍の士気を昂揚せんとして、反って悲惨なる結果を招き、痛憤復讐の念を抱かしむるほか何等得る所なき無謀の挙と言はずして何ぞや。退嬰《たいえい》作戦において、殊に燃料の欠乏甚だしき今日において、戦艦を無用の長物視し、また厄介なる存在視するは皮相の観念にして、一度攻撃に転ずれば、必要なること、敵が戦艦の多数を吾等の眼前に使用し、第三十二軍(沖縄軍)は戦艦一隻は、野戦七個師団に相当し、これが撃滅を度々要望し来れるに徴するも明なり……そもそも茲《ここ》に至れる主因は、軍令部総長奏上の際、航空部隊だけの総攻撃なりやとの御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奏答せるにありと伝ふ。帷幄《いあく》にありて籌画《ちゆうかく》補翼の任にある総長の責任、蓋し軽しとせざるなり」  このときの総長は及川古志郎大将である。宇垣の「菊水一号作戦」に対する眼は、かなり冷静である。しかし、豊田連合艦隊司令長官は、さらに「天一号作戦」による特攻を発令する。この作戦には「菊水一号」から「菊水十号」までふくまれている。  一、諸情報を総合するに、敵は動揺の兆ありて、戦機は正に七分三分の兼合にあり。  一、連合艦隊はこの機に乗じ、指揮下一切の航空戦力を投入、総追撃を以てあくまで天一号作戦を遂行せんとす。  かくて四月十二、三日の両日、特攻機二百二機をふくむ三百九十二機は沖縄上空に決戦を挑んだ(菊水二号作戦)。  米艦十七隻が沈没。多数が損害を蒙り、乗組員の中から発狂する者が続出した。この一戦を目撃した「ニューヨーク・タイムズ」の従軍記者、ハンソン・ボールドウィンはつぎのように報じている。 「敵機の攻撃は昼も夜も絶えたことがない。慶良間の錨地は損傷船で埋めつくされ、太平洋至る所、傾きながら走る艦船の列が、東へ東へと進むのが見られた」    若い特攻隊員に申訳けない[#「若い特攻隊員に申訳けない」はゴシック体]  当事者である第五艦隊司令長官スプルーアンス大将の「特攻」に対する評価は、さすがに深刻である。四月十七日、彼は日本の攻撃がひと息ついたところで、太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥に意見具申を行なっている。 「敵の特攻攻撃の手練と効果、それによって受けるわが艦隊の喪失と損傷は、これ以上の攻撃を食い止めるため執り得るあらゆる方法を論じなければならぬ段階に到達した。使用し得るすべての飛行機で九州及び台湾の飛行場を攻撃することを進言する」  沖縄における特攻は、以上のようにアメリカ側にかなり心理的打撃を与えることになった。  その要点をかいつまんで紹介したのは、ほかでもない、「鈴木貫太郎伝」の筆者は、ハンソン・ボールドウィンやスプルーアンス大将の報告は「米内海相から鈴木首相、東郷外相にも伝えられた」としている。そしてつぎのようにいう。 「これで若《も》し沖縄奪還の機を掴み得るならば、それこそ神機到来、活発な外交手段をも講じ得ると、政府も軍部も一時生色を取りもどした感があった」  この記述は、各種の資料をつきあわせて、行なわれたと聞いている。したがって、事実であるとするなら、特攻をかけて敵の心胆を寒からしめ、それを契機として外交手段を展開するという方程式は、大西瀧治郎中将の発想したものと、なんらかわるところがない。ただ、大西中将はその特攻の思想を日本列島にまでエスカレートしようと主張して�暴将�あるいは�愚将�のレッテルを貼られたのである。  彼がそれを主張したのは、外交手段によって得られる「平和」は「皇国三千年の伝統を汚すもの」になるからであり、そうなっては、彼の掌にぬくもりを残して飛び立った六百十四名の若い隊員に申しわけないと、信じたからである。そこには、いわば、戦争は戦争によって解決するという、価値判断の一次方程式が働いているのである。彼にとって「国体」という論理を超えた価値は、もはや問題ではなかった。  後述するように、大西を先頭とする海軍軍令部内の�継戦派�は、八月十三日の夜、講和のための御前会議をひきのばそうと、和平派の間を説得してあるくことになった。大西中将は高松宮殿下の説得にあたった。これから出かけようとするとき、猪口参謀と偶然に顔をあわせた。猪口はフィリッピンで最初の特攻を発進させたときの参謀である。台湾まで大西と同行し、大西が軍令部次長に出仕したあと、鈴鹿海軍航空隊の司令に転じて、再び軍令部に配属されたものである。  猪口の手記によると、そのとき、二人はつぎのような会話をかわしている。 「どこへお出かけですか?」 「高松宮殿下のところへお願いに出かけるところだ」 「そうですか……私はさきほど殿下のところで、次長のことをひじょうに厳格な命令の遵奉者《じゆんぽうしや》ですから、大命一度くだればその通りやられますよ、と申し上げてきましたよ」(草柳注・これは猪口が大西のなお二千万人が死ぬような本土抗戦を耳にして、大西を牽制した発言である) 「国家の亡びるときでもそうかね?」 「亡びる亡びぬはだれがきめるのですか? 亡びると思うのはあなたの考えではないですか?」 「………」 「今こそ坊門の清忠の声を、陛下のお声とかしこんで引きさがった大楠公の通りやらなくてはなりませんよ」 「それは実にきついことだがなあ、それはそうだよ」    「死」の公平な分配[#「「死」の公平な分配」はゴシック体]  会話としてはこうなるが、猪口によると、大西は「坊門の清忠の声を陛下のお声とかしこんで引きさがった大楠公」という言葉にぶつかると、口をきゅっと真一文字に引きしめ、しばらく一点を見つめて黙ってしまったという。大西は中将で猪口は中佐である。本来ならば、中将が「大楠公」の故事をひいて中佐を説得するところが逆になっている。ことほど左様に、大西の中にある価値判断には「天皇」よりも「国家」の概念がつよかったわけである。  彼は「特攻」という「犠牲」を「犬死」に置きかえないために、日本列島をも「犠牲」に参加させようとしたことになる。この思想のゆきつくところは「死」の公平な分配である。掌の温《ぬく》もりがそうさせるのだ。血の自覚が「死」を公平に分配させようとしている。運命共同体の観念を主軸とする社会の、典型的な思想のあらわれと、見ることができないであろうか。  しかし、海軍軍令部内では大西は�列外の人物�になっていた。  軍令部内の、ことに作戦部は�情報�と�計算�で成り立っている。「国体」という観念も入ってこなければ、「掌の温もり」も介入してこない。追求さるべきは�情報�と�計算�による、彼我の戦力の差である。それを追ってゆくと、日米間の戦力はほとんど絶望的なほどひらいていることがわかる。その現実を前にしてみると、大西中将の態度は無謀の軌道を走っているかのように見えてくる。  彼は作戦会議の席上で「最後まで、どんな場合でも、自分はいま一戦を交えるつもりだ。みんなはどうだ?」と、例の大きく光る眼で一座を睨みまわした。  これが、大西一流の問いかけであることは、「特攻」を編成する場面で紹介しておいたとおりである。わざと極端なことをいって、反対意見や修正意見を触発させ、それを聞きながら、適当な意見にまとめあげようというやり方だ。が、作戦会議ではこの手は通用しなかった。 「最後まで一戦をまじえる? そんなことがこの戦力でできるものか」と、海大出身のエリート課員は、一様にそっぽをむく思いである。わずかに「国家思想」を奉ずるものが大西にしたがった。  余談になるが、国定謙男少佐を紹介しておく。八月十五日の夜、国定少佐ら軍令部部員の有志は、大西次長を官舎に訪問している。酒がまわると、大西は涙を流しながら「これから先、日本がどうなるかは分からない。然し唯一つ君達は日本人として恥じないように行動してもらいたい」といった。  その夜更け、国定は同期の太田少佐とともに、宿舎になっていた第一ホテルの部屋に帰ってきた。そこで彼は泣きながら太田にいった。 「俺は残念だ。降服とは残念だ。俺はもう生きて居れない」  太田は必死になって国定を説得した。そのあと、鈴木英中佐も国定に「大命によるものだから仕方がないのだ」と、自決を思いとどまるように説得を重ねた。  しかし、国定少佐は八月二十二日午前三時、海軍が「予科練」を育てた土浦町にある善応寺の墓地で自決をとげた。三十三歳の若さである。    死ぬことを建て前として[#「死ぬことを建て前として」はゴシック体]  国定が善応寺をえらんだのは、ここに維新の志士であった佐久良|東雄《あずまお》の墓があるのと、彼自身が「予科練」の教官として、特攻隊員を育てたからである。国定は鈴木中佐の説得に対して「自分は武装解除には応じられない」と主張している。思想も行動も、大西中将と相似形である。  しかも、国定少佐は病身であったため「無条件降服したその後に於て、妻子を連れて路頭に迷うような恥を受けたくない」と、妻と二人の子どもを道連れにしている。妻の喜代子は三十一歳、長女緋桜子は五歳、長男隆男は二歳である。  自決直後の模様を、田々宮英太郎が「大東亜戦争始末記」の中で、聞き書きの形で述べている。 「松の巨木の傍には、喜代子夫人と長男の隆男ちゃんが向い合い、その手前に、長女緋桜子さんが、並んで仰向けに倒れている。いずれも、頭を東方に向けていた。夫人は紺絣《こんがすり》のモンペ姿に白足袋をはいている。女の子は絽《ろ》の赤い模様の着物、男の子はセーターにズボン姿だった。  拳銃のたまは、いずれも左コメカミから射ちこまれ、夫人は右頬、子供たちは右頭部をつらぬかれ即死である。少佐自身は第三種軍装で、長剣や図嚢《ずのう》まで着けている。軍帽をとると、たまっていた真赤な血が、どっと地上にこぼれ落ちた。意識はないのだが、脈搏だけはまだ打っている。小型の陸式拳銃は右コメカミを射ち、左側へ貫通しているのだが、丈夫な心臓が辛うじて生命を維持したようである。少佐と三つの遺体は、航空隊の病院に運ばれたが、少佐の絶命はじつに午後三時三十分であった」  猪口参謀は、大西中将や国定少佐などが、「本土抗戦」を主張して容れられなかったことについて、「それは死ぬことを建て前としたものと、生きることを建て前にしたものとの相違である」と述べているが、大西や国定が「死ぬ」を建て前としたその前提に「特攻発進」があったことはいうまでもない。  大西中将は、特攻隊が出撃する際に与えた訓示の中で「命ずる者も死んでいる」という言葉を使った。彼自身に即していえば、六百十四名の若い生命を自分の生命ひとつが引き受けたのだ、という思いがあろう。特攻隊員は大西という「死者」から発進して、つぎつぎと死者の列をつくっていったのである。大西は、想念の中でこの死者の列と遭遇し、しばしば涙を流し、彼らしい豪快さを失って、とぼとぼとした気持になっている。  そのような大西を軍令部の主流が評価するわけがなかった。あまつさえ、大西は米内海相や豊田軍令部総長のいる前で、作戦部長の富岡定俊少将を面罵したことがある。富岡は、海軍きっての作戦家であり、人格識見ともに敬仰の的になっている。開戦当初は作戦部第一課長のポストにあり、終戦時には作戦部長の要職を占めているのだ。  もとより、戦争終結の見とおしを持っているから、大西の「最後の一戦まで」に対して、危うさを感じていたわけである。それが口の端に出る。大西が激怒する。その激怒が、自分の経験でしかモノをいえない軍人という印象をふかめる。  米内が大西の激怒に青年将校の主戦論を吸収したとするなら、大西は激怒することによって、彼の終戦構想を推進しようとした、といってもよいであろう。  終戦間際になって、大西は「米軍基地特別攻撃隊」を発案し、軍令部員を脱帽させている。    B29焼打ち計画[#「B29焼打ち計画」はゴシック体]  日本の都市は米軍の無差別爆撃にさらされている。迎撃しようにも戦闘機はなく、レーダーも稚拙《ちせつ》で高空のB29捕捉できない。高射砲も、もちろん、一万メートルという上空には届かない。  万事休す、と思われた。そのとき大西が「基地にあるB29焼き払えばいいだろう」といった。すでに先例がある。沖縄戦のさ中、五月二十三日の夜、「義烈空挺部隊」が北、中飛行場に強行着陸し、飛行機を焼いたり滑走路を爆破して、数日間、使用不能に陥らしめている。  東京空襲のB29、ほとんど、サイパン、グアム、テニアンを発進していることはわかっている。それなら、B29爆撃を終えて帰投するとき、味方機はそのあとをつけていって、サイパンやテニアンの基地にいっしょに着陸すればよい。米軍の防禦砲火は、友軍機と一緒の日本機を狙うことはできまい。そこで着陸は可能になる。そのあとは、特攻隊員がオートバイに分乗、飛行場の中を駆けめぐって、着陸したばかりのB29焼き払ったらどうだ、これが大西のプランだった。  軍令部は採用した。さまざまに検討した結果、それでは�B29打ち�になにを使うべきか、が最後にのこった。大西もやや苦吟気味だったが、数日もすると、「おい、できたぞ」と、二個の缶詰を持ってきた。なんでも缶詰工場の社長に教わったそうで、イワシやクジラの大缶程度のものに爆薬をつめ、この蓋の上に「とげ」を立てる。軍令部ではこの「とげ」のことを「ノー・リターン」とよぶことにした。B29左右の主翼はガソリンタンクである。しかもジュラルミンでできている。そこへこの「とげ」を突き立てれば、ぶすりと入ってしまう。あとは時限装置の爆薬が破裂する。「ノー・リターン」とつけたのは、翼に「とげ」が突き刺さったら、絶対に抜けることがないからだ。特攻隊員はオートバイを駆って着陸したばかりのB29この装置をしかける。彼らもまた「ノー・リターン」なのである。 「大西中将の着想の奇抜さには、軍令部員も誰一人、舌をまかぬものはなかった」と土肥一夫中佐は述懐している。さて、この「B29打ち計画」は着々と進められ、特攻隊員の訓練も行なわれた。「サージン何号」と番号のついた缶詰を二個ずつ飛行服のポケットに入れ、オートバイにまたがって飛行場を疾駆する姿は、やや異様であった。  決行日は八月十日ときまった。ところが、特攻隊員を乗せて、東京から帰投するB29後をつけてゆく飛行機が米機の攻撃で損傷を受けた。その修理に手間どり、決行日は八月十日から八月十七日へと延期された。結局、実現できなかったわけである。実現できても、果して日本側の思いどおりにいったかどうか、わからない。が、大西中将の「戦争を続ける」という意図は鮮明になったであろう。    死中に活を求む[#「死中に活を求む」はゴシック体]  だが、事態は大西を�列外�に残して「和平」の方へ大きく傾いていった。  七月には近衛文麿を特使としてソ連におくり、和平工作を依頼する計画がすすめられた。が、ソ連側は「日本の申し出は抽象的すぎてよくわからない」と突っぱね、交渉はモスクワ段階で停滞した。  七月二十六日 ポツダム宣言発表。  八月六日   広島に原子爆弾。  八月八日   ソ連参戦。  八月九日、天皇から催促があって、鈴木首相は木戸内府と相談の結果、緊急閣議をひらいて「ポツダム宣言」を検討、ひき続き「最高戦争指導会議」をひらいた。果せるかな、阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長が強硬に反対、東郷外相の「三国首脳宣言の線で交渉すべし」という意見と鋭く対立した。結局、「皇室の安泰を確保すること」「自主的撤兵」「保障占領を行なわないこと」「戦争犯罪者の自主的処理」を四条件としてつけることになった。  この話が伝わるや、高松宮や重光前外相は「条件付きでは連合国が拒絶し、せっかくの機会を失うばかりである」と、木戸内府に申し入れを行なっている。後日、大西中将は「最後の御前会議」を引きのばしてもらおうと高松宮を訪れているのだから、事情に昏《くら》かった難は免れえない。当時、内閣書記官長であった迫水久常によると、軍人も将官となって行政府に入ると、異なった分野の�名士�と親交ができるものだが、「大西中将にはそれがなかった」といっている。大西自身に戦地勤務が多かったことが、軍以外の分野に顔を出すチャンスを失わしめたわけである。それもあるが、大西が親交を結んだのは矢次一夫や児玉誉士夫のような、常識や理論ではからめとることのできない�怪物�であったことも否みえない。そのような大西にとって、高松宮は「和平派」というよりまだ「皇族」として映っていたわけである。  九日の夜から「御前会議」になった。軍部は、「必勝を期することはできないが、必敗と定めることもできない。敵を水際にひきよせて打撃を与え、死中に活を求める余地は残っている」と強調した。これに対して東郷外相は、「この際は戦争終結の好機であり、天皇のご地位と国体に変化がないことを前提に、ポツダム宣言を受諾するほかはない」と、条理をふまえて主張した。  深夜になった。午前二時、対立はとけなかった。鈴木首相がすすみ出て、「このうえはご聖旨を忝《かたじけな》 くして、本会議の決定といたしたい」と奏上した。  その結果、「聖断下る」の場面になる。日本政府は、連合国に対して、「右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解のもとに受諾す」という電報を発する。  八月十二日、外務省ラジオ室が連合国側の回答をキャッチする。ほとんど同時に、同盟通信の外信部もその電波をとらえ、安達記者が迫水書記官長のところへ届けた。外務省の松本俊一は「全文を読みながら神経にヒシヒシと響くところがあり、これはいかんと、また読みかえした」といっている。  問題点は三つである。「降服の時より天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認むる措置を執《と》る連合軍最高司令官に従属さるべきものとする」という箇所である。外務省は「従属する」の「サブジェクト・ツウ」(subject to)という言葉を、刺激をさけるために「制限の下におかるるものとす」と訳している。しかし、陸海軍の�主戦派�はこれを「隷属せしめらる」と訳していたのだ。  第二点は「最終的の日本国の政府の形態は国民の自由に表明する意思によって決定される」という点であり、第三点は「連合国軍隊の保障占領」であった。  果せるかな、陸海軍統帥部はこの箇所を問題にした。午前八時二十分、梅津参謀総長と豊田軍令部総長は、列立上奏を行なった。  この内容では、帝国は属国化し、国体は破滅することは必定であり、また外征数百万の将兵を統率することも不可能になる、と力説した。    講和ひき延ばしに必死[#「講和ひき延ばしに必死」はゴシック体]  この列立上奏を知って、烈火の如く怒ったのは米内海相である。梅津はともかく、豊田軍令部総長が海相に一言も相談せず、上奏に出かけたのがいけなかった。米内は「一軍人の生涯」の中で、豊田と大西次長を呼びつけて、一時間半ばかり厳しく叱責したと書いている。豊田に�無視�されたというより、すでにポツダム宣言に受諾の態度を示しているのに、ラジオ放送を聞いたくらいで上奏するなど、軽率きわまりないと、その点を怒っているのだ。高木惣吉の「私観太平洋戦争」には、高木が米内のところへ慰労の言葉をのべにいった際、米内が「今日は一時間半ばかり、総長と次長を呼んで注意した」という談話がのっている。 「(前略)今日はだんだん詰めよったところ、結局敵側の条件では統率上はなはだ困ると思っていたところに放送を聞いたので、つい誤ったと言っていた。極力善処する、進退はいつでも覚悟しているという意味のことを言ったから、それは君が考えなくてもよい、私が考えることだと言っておいた。次長に引きずられるのだョ、次長を呼んで、うんと叱ってやった。すでに聖断がくだった以上、絶対であって、いかなる困難があっても思召しにそうよう万全を尽すべきである」  また、海相の麻生秘書官の回想も出てくる。 「大臣が次長を叱りつける声が、秘書官室まで手にとるように聞えてくる。大臣が、あんな大きな声を出したのは、はじめてのことで、私は古川秘書官と語らい、もしものことが起ったら、すぐ大臣室にかけつけようと身構えをしていた……」  米内海相も終戦工作に必死だったが、同時に大西中将も�講和ひき延ばし�に必死になっている。最早、大西は米内の設定した「緩衝装置」から離脱し、自己運動をはじめているのだ。米内はそれを制約しにかかったわけである。  ところが、大西は米内からこっぴどく叱られたにもかかわらず、�講和ひき延ばし�の運動をやめていない。  米内から叱られた直後、大西は軍令部で会議をひらき、御前会議をなるべくひき延ばし、和平派を説得する工作をたてている。大西自身は高松宮にあい、高松宮から米内を説得してもらうようにたのむ。土肥中佐は永野修身元帥を、富岡第一部長は及川古志郎大将を、大前第一課長は野村直邦大将と近藤信竹大将を、それぞれ説得するよう割当がきまった。一同がそれぞれの訪問先に出かけたのは夕刻である。ただ、富岡少将の立場は微妙であった。彼は出発に先き立ち、第一課の作戦課員を集めて、こういった。 「私は天皇陛下の御聖断にしたがうつもりである。もし、私と異なる意見のものは、率直にいってほしい」  作戦課員はほとんど応答しなかった。自決した国定少佐は、動員と戦備をあつかう第二部の部員であり、その場に居合せない。    もはや必勝の方策なし[#「もはや必勝の方策なし」はゴシック体]  ところが、大西といっしょに米内に叱責された豊田副武は、十三日の夜、またも独自の行動をとっている。  八月十四日には「御前会議」がひらかれることになっていたが、それに先き立ち、平沼騏一郎枢密院議長から迫水書記官長あてに、「天皇の御位置は惟神《かんながら》の道であって、ポツダム宜言にいうように≪日本国国民の自由に表明する意思によって決定される≫と、わが国体の本義とちがってくる。この点、アメリカは理解が不足しているように思われるので、敵側にわが国体の本義を説明したうえ、もう一度回答をとりたまえ」と、申し入れがあった。  迫水は「御前会議」の前日だけに、頭を抱えた。果せるかな、この平沼枢密院議長の提案に陸海軍の主戦派は手を拍《う》ってよろこんだ。連合国側の回答如何では、八月九日の「ご聖断」がひっくりかえらないとも限らない。  夜に入って、梅津・豊田両総長から迫水書記官長に申入れがあった。東郷外相にあって、「もう一度、連合国側の�国体�に関する考え方を聞くように要請したい」というのである。  迫水は、東郷に明快な説明をしてもらおうと考えた。そこで、とって置きのオールド・パーを一本用意し、東郷外相と両総長の会談をしつらえた。  東郷は「そんなことはできない」と突っぱねた。夜は更けていったが、両総長もなかなか「そうか」といわなかった。迫水は、会談の空気から、両総長が自らの本意でこの場に来ているのではないことを察知できた。あきらかに下部からの�突き上げ�が、彼らを東郷にあわせている、そんな空気だった。  会談の途中で、大西中将がその場に姿をあらわした。眼が血走っている。「いままで高松宮殿下にお目にかかっていたが、この線での工作はだめでした。これからぜひ総長におあいしたい」と、迫水にいった。迫水はいっそのこと、東郷外相も梅津参謀総長もいる場所で大西を豊田にひきあわせようと思った。 「大西次長がお見えです。総長にお目にかかりたいそうですが、ここにご案内してもよろしいですか」 「そうか。うん」  豊田が短くいった。薄暗い電灯の下を大西中将の幅広の身体が進んだ。すぐ、手短かにいった。 「閣下。高松宮殿下にお目にかかりましたが、殿下から�陛下は陸海両軍をご信頼になっていない�とのお言葉でした。また、必勝の方策はあるのかとのお訊ねで、私は�海軍にはありません�とお答えしておきました。いまや、陛下のご信頼を回復するほかはありません」 「そうか」  豊田はそれしかいわなかった。大西を先頭とする�主戦派�に動かされてその場にいる以上、大西の報告をきくほかはないわけである。大西は、なおも、部屋の中に突っ立ったままである。    私たち軍人は甘かった[#「私たち軍人は甘かった」はゴシック体]  そのとき、空襲警報が鳴った。一同が椅子から腰をうかすと、それがなんとなく解散のきっかけになった。外相と両総長が夏の闇の中に消えてゆくと、大西は迫水とむかいあって話しはじめた。それは、胸中のものを吐き出すような調子だった。 「私たち軍人は、この四、五年間、全力を尽して戦ってきたように思いますが、昨日あたりから今日にかけての真剣さにくらべれば、まだまだ甘かったようです。この気持で、なお一カ月間も戦を続ければ、きっと、いい知恵がうかぶと思うんです。あと一カ月、なんとかならんでしょうか」 「もはや、どうしようもないでしょう」と迫水は断言した。「いま閣下のおやりになるべきことは、一刻も早く、海軍の内部を収拾することではないでしょうか」 「そうですか」と大西は立ち上り、迫水に握手を求めた。それから迫水の手を両手で包むようにすると、はらはらと涙を流した。 「なにか、よい知恵はないでしょうかねえ。なにかないかなあ」  大西は、泣きながら呟くと、迫水から手を解き、悄然として暗がりの中に消えていった。これが迫水の見た、最後の姿になった。  軍令部には猪口参謀ひとりが大西の帰りを待っていた。あまり遅いので、猪口も引き揚げようとしたところへ、大西の重い足音がきこえた。それは、いかにも歩くのが億劫だというような、投げやりな足音であった。「だめだったな」と直感した。果してそのとおりである。大西は椅子にすわると、「なにかないかな。もう、万事休す、だろうか」と呟いた。猪口は「まだ、方策はありますよ」といった。 「和議をひき延ばすために、高松宮に伊勢神宮に参拝していただくよう、おねがいしましょう」 「ぜひ、そうしてくれ」  翌日が最後の御前会議になる。宮中の防空壕に大西も出かけていった。大勢は決していた。大西は、最早、米内にも豊田にも必要な人物ではなかった。阿南陸相ですら、電話を使って陸軍内の主戦派をだまし、戦争の収拾に肚《はら》を固めていた。  大西は、部屋の外にいて「陛下、おねがいでございます」と繰りかえした。 「われわれ海軍は至っておりませなんだ。まだ、頭の使い方が足りませんでした。あと五、六カ月、ご猶予ねがえませんか。海軍は新しい考えを出すでありましょう。おねがいでございます」  これが「特攻」を発進させた責任者の、最後の提案、提案というより嘆願であった。彼の「本土決戦」思想は、根を探れば、特攻機に乗りこんだパイロットへの贖罪《しよくざい》意識にある。それが、国際外交のダイナミズムに貫徹するはずはなかった。  聖断下る——。  陛下が退出され、重臣たちが静かに椅子を軋《きし》らせて部屋から出ていった。大西は、いつまでも椅子にすわっていた。米内が肩を叩くと、小さく頷いたが、腰を上げようとしなかった。伺候《しこう》の間に人影が消えた。やがて宮内省の属官が入ってきて、椅子を片づけはじめた。その音に大西は顔をあげると、属官たちに声をかけた。 「あなたがた、なにか、いい考えはありませんか。国を救うにはどうしたらいいという……」  夕刻。大西は「児玉機関」のあるビルの階段を昇ってきた。扉をあけて、立ったまま「ダメだったよ」といった。児玉が一度も見たことのない、総毛立った顔をしていた。椅子に身体を沈めて、しばらく御前会議の模様を話していたが、児玉に「俺は、今夜、官舎にとまるよ」といった。妻の淑恵が増谷の家に移ってから、大西は児玉の家に寄宿していた。大西は児玉の贈った軍刀二振りと洗面道具を抱えて、児玉家から出ていった。「死ぬ気だな」と児玉は思った。  大西は、その夜、矢次の家で痛飲し、闇の中に高笑いを残して帰っていった。翌十五日が玉音放送である。従兵が朝の茶を運んでゆくと、大西は部屋の中央部に直立不動の姿勢で立ち、頭を東方に垂れて、嗚咽《おえつ》の声をほとぼらせていた。悲鳴に近い、うめくような泣き声であった。  十六日の午前零時に近く、軍令部の将校たちが引き揚げたあとで、従兵が熱い茶をもってゆくと、大西は蚊帳の中に端坐して、なにかしきりに書きものをしていた。それが遺書であることは、蚊帳の外からはわからなかった。彼は、最後の作業をおえると、蒲団と蚊帳をきちんとたたんで押入れに入れ、部屋の中央にシーツを敷き、その上に正坐して、軍刀を腹に突き立てたのである。  淋しい通夜であった。  妻の淑恵と若い副官の二人だけが、遺骸の前にすわっていた。妻の淑恵は、八月十二日、群馬県下仁田に疎開していた母親の許にいった。前日、「疎開しろよ」と大西がみずから切符を届けに来たのだ。淑恵は母を伴い、十三日に千明《ちぎら》牧場に入った。そして十六日には、「大西自刃」の報を持った児玉に迎えられ、とって返したのである。  遺骸の前で、児玉がいった。 「奥さん、泣きなされ。大声をあげて泣きなされ。武人の妻が泣いちゃいかんなんて、そんなのウソだ。ここなら泣いてもいいんだ」  裏庭で木を伐る音が聞えていた。従兵が棺桶を作っているのだった。終戦のごったがえしで、海軍からは霊柩車一台、棺桶一本こないのである。いや、花さえなかった。淑恵は、夫が花好きであったことを思い、官舎の庭を歩いてみた。おいらん草が三、四本、わびしく咲いている。それが、ひどく惨めに見えた。納棺のとき、多田海軍次官の妻が紅い花を腕の中に抱えてきた。 「麻布のあたりをとおりかかったら、夾竹桃がいっぱい咲いていたのよ。そこの家のひとに、ある人が亡くなったけれど、お棺に入れる花もないんですと、たのんだら、どうぞお好きなだけ、と折って下さったの」  夾竹桃の紅い花が大西の死顔のまわりを埋めていった。その華やかな光景が、かえって妻の涙を誘った。  運転手がどこからかトラックを借りてきた。トラックがゆれるたびに、棺桶はごとごとと音を立てた。落合の火葬場近くまで来たとき、爆音がして眼をあげると、零式戦闘機だった。一機、零戦は低空で突っこんでくると、トラックの上で翼を振り、そのまま一直線に青い空の小さな点になった。         ×    ×    ×  鶴見の曹洞宗大本山総持寺に、大西瀧治郎の墓がある。黒御影の小ぢんまりとしたもので、墓に向って左手に観音像が建っている。「海鷲観音」とよび、特攻隊員の若い霊を弔う微志という。 [#地付き]〈了〉 単行本 昭和四十七年七月文藝春秋刊